椹木(さわらぎ)百合香の生まれて初めての記憶は、夢だった。二度と視(み)ることはない、しかしけっして忘れることのできない、夢。 多分、季節は夏だったと思う。まだ梅雨の名残が居座っていて、激しい雨が降ったり止んだりしていた。鈍い灰色の空は重苦しく…
カツカツカツ、という靴の音が、がらんとしたフロアに響く。喪服に身を包んだ女性が奥の方から歩いて来ていた。 十五年も続く世界大戦による電力不足で、フロアの中は薄暗い。その中で彼女はより一層暗い、影のように見える。「おや、モレー教授」 そんな彼…
にゃおん、にゃあにゃあ、なおーん。 私が鳴いた途端に、すぐ近くにいた同居人が凍りついたように固まり、青褪めた表情になった。「ちょっと、ネロ、やめてよ」 同居人であるリリアが私に話し掛け抱き上げる。その手つきは優しかったが、微かに震えていた。 …
静かに、時が止まったかのように晴れた夏の真昼。東京でピンク、NYでグリーン、パリでブルー、ロンドンでイエロー……世界各地で、それぞれパステル調に塗られた飛行機が目撃された。戦時下だというのに、それは悠々と、淡い色彩のラインを一本、空に引くか…
錠剤をざらざらと飲み下し、お気に入りの毛布にくるまって横たわる。月の光も差し込まない真っ暗な部屋で、私は遠い旅に出る。 目を閉じてじっとしていると、瞼の裏にぼんやりとした景色が現れる。それは隅々まで青白く照らされた砂漠を行くキャラバン。私一…
月のない夜、僕はほっとする。まばらに散った星々の灯りと地上の灯りだけを頼りに歩く夜の、底知れない夜に守られているかのように。 建設途中の公団の壁に設置された蛍光灯に照らされて、そこから顔をのぞかせるノウゼンカズラがまるで死体から零れ落ちる内…
鴉鳴き横でそ知らず熟す果樹いずれ腐れど種子は残ろう 項垂れど重い目蓋を開ければ無限に広がる白紙の未来 新月の呼吸に合わせ指を折る忍び寄る闇手招くように 秋の穹銀杏の雨にさらされて一滴混じるは楓の朱色 「愛してる」いつかそれすら零れ落ちその形相…
深夜の弁当屋を出ると、ずいぶん冷たい風が吹き込んできた。まだ九月になったばかりだと思っていたのに、気付けば十月まであと数日。そろそろ秋冬の服を出さないといけなさそうだ。 月のない空は暗く、陰気で重い灰色をした雲がのっぺりと浮かんでいる。肌寒…
何年経っても、ねえ、私のみかたでいてくれる? 午後十時二十一分。滅多に鳴らないスマートフォンが、ポロン、と、声を上げた。 『明日、十九時に、雪緒の働いてた喫茶店で。』 たったそれだけの文章がロック画面の上に浮かんでいる。画面を開くまでもない。…
今日は二月四日。春が始まる日。 陽が随分と伸びた。遠くからオレンジ色の光が放射状に広がって、街並を舐めるように染め上げている。まだ風は冷たく鋭く、コートの襟を掻き寄せずにはいられない寒さが続くけれど、暦が変わっただけでほっと一息つけるのは何…
うららかな、春の初めの陽射しがふんだんに降り注ぐ午後。男はゆらゆらと、まるで目的を失った回遊魚のようにして街を彷徨していた。 時に煙草をふかしながら、時にビールを片手に持ちながら、夜になるまでをそうしてあてどなく歩き回るのが彼のルーティーン…
雪がちらほらと降り始めた。 見上げた空は淀みも雲もひとつもない青空で、天頂で輝く太陽の光は強く、まるで暴力のようだというのに。 セスは小さな溜息をつき、右手に持っていた大きな傘を急いで広げた。がじゃん、と、耳障りな音を立てるそれは持ち手から…
雨が上がった後の夏の夜の空気はとても重い。てのひらを泳がせると、纏わりついてくる。ぴたりと張り付いて皮膚の上でもぞもぞと蠢くのを、手でぺりっと引き剝がす。カットバンを取った時みたいな感触。夜は生き物だ。 あまりたくさんの夜をそうやって張り付…
「こら、他犬(ひと)のおしっこの臭いなんていつまでも嗅がないの」 道端のポールにくっつかんばかりに鼻を近づけくんくんする愛犬――ジェロに私は声を掛けた。 ジェロは理解しているどころか聞こえてすらいないかのように思う存分に臭いを嗅ぎ、確かめ、そこ…
「どうして世界は僕に優しくないんだろう」 そう問うたら、傾き始めた冬の日差しを浴びてうたた寝をしていたカルルが、目をぱちりと開いた。 「起きていたの」 僕は少しだけ驚いて、そう言う。 「半分寝ていて、半分起きていたんだよ。昨日授業で習っただろ…
窓越しに蝉の声が聴こえてくる。 北向きの部屋には早朝でも陽は射さず、肌寒い。薄い灰色のフィルタがかかっているような空気。空調の音が耳鳴りのように聴こえる。 私は十年前に使っていたような、灰色の手のひらサイズの携帯を手にしている。横3センチ、…
「はあぁるぅのおおがあわーは さーらーさーらーゆーくーよー」 昼過ぎまで雪が降っていた哲学の道を、花音が唄いながら歩いていく。私は少し距離を保ちながら、その背中を追うようにして歩いていた。 アスファルトで固められた道と道の間にある奈落を、透明…
君のカノンを追い越していく 繰り返し増殖していく自殺傷動 先回りして待っているのさ 片っ端からその音を ひとつひとつ 叩き潰してやる もうこれ以上唄えなくなるまで いちからじゅうまでやっつけて そして始まる僕のカノン 君の旋律を塗りつぶしていく 聴…
数年ぶりに実家に帰った。 新宿から私鉄で三十分揺られ、バスに乗っていく場所。 駅前は開発が進んでとても綺麗で賑やかになったけれど、 離れてしまうとそこは寂しい振興都市だった場所だ。 高齢化が進み、私が通っていた小学校も、中学校も失くなった。 真…
ビルとビルの間でわだかまるオレンジの隙間を縫うように、 鳥たちが渡って行く。 空は予感に打ち震えるような、 綺麗なレモン色をした光でいっぱいに充たされている。 私は悪い夢を見て迎えた今日が、 それに負けることなく暮れていくことを知る。 日々に希…
Hello, Hello, Wold is fine ! (maybe)