美しい血肉

日々のことが美しくないなんて嘘だ。

君。

「こら、他犬(ひと)のおしっこの臭いなんていつまでも嗅がないの」

 道端のポールにくっつかんばかりに鼻を近づけくんくんする愛犬――ジェロに私は声を掛けた。

 ジェロは理解しているどころか聞こえてすらいないかのように思う存分に臭いを嗅ぎ、確かめ、そこにおしっこをする。うちの犬はオスなので、マーキング意識が高い。が、犬を散歩させるときのマナーというものがあるので、私はその上から容赦なくペットボトルに汲んで持って来た水を掛け、彼のマーキングをなかったことにした。

「寒いから、早めに帰ろうね」

 吐く息が白い。空気が澄んで、星がよく見える。といっても遠く東の方が副都心なので空は明るく、見えてもベテルギウスがいつもより明るく見える程度だ。この町はその点だけが、前の町に比べてつまらない。

 ジェロは恐らく雑種だが、多分柴犬とか秋田犬が混じっているのだろう。むくむくもこもこの冬毛で、寒さなんてなのぼのもんじゃい、もっと歩こうよ、という顔で私を見上げている。

「そんな顔で見ても駄目だよ。風邪ひいちゃうもん」

 寒さに極端に寒い私は、絆されそうになる自分を抑えてジェロのリードを引っ張る。それにつられて彼も歩き出し、散歩を再開した。

 ジェロを拾ったのはちょうど一年くらい前の話だ。

 家と仕事が無くて、さてどうしようかな、と考えあぐねながら公園のベンチに座っているとき、足元にまだ手のひらサイズの子犬だったジェロがじゃれついてきたのだ。周りを見たが飼い主らしき人はおらず、首輪もつけていなかった。……きっと、捨て犬だったのだろう。

 お金はあったから、別に路頭に迷っているわけじゃなかった。仕事で悩んでいたわけじゃなかったし、衣食住にも困っていなかった。恋人も、いた。今までに何人かと付き合った経験があったが、彼のことがその中でも格別に好きで、好きすぎて、どうしたらいいかわからなくなってしまった私はある日突然、自分と自分自身を取り巻くすべてが怖くなって、逃げ出してきたのだ。

 ずっとコンタクトをしていたのを黒縁の眼鏡に変えて、髪の毛も切ってとびきり明るく染めて、ぱっと見は他人に見えるような姿になって、私は今住んでいる町にトランクひとつでやって来た。親にはその前に行った旅先の辺鄙な村から「無事に生きているから探さないでください」と葉書を投函した。失踪願とか出されたら困るから。今でも一、二か月に一度は、同じようにして、どこか、今住んでいる場所とは全然違う場所から同じような葉書を出し続けている。

 もともと家族間の人間関係も希薄で、友達も大していなかった私がひっそりと姿を消すのは思っていた以上に簡単だった。それは少し寂しさも伴ったけれど、それと同時に気楽で、私はすぐに新しい仕事を見つけて、ジェロと住める家も見つけて、今、こうして散歩をしている。

 他者とある程度の距離を保って密に関わらずに、本当の一人ぽっちでいることは、私にとってとても楽で安心、心地よいものだった。

 仕事は、たまたま近所にあったパン工場での勤務を選んだ。一日八時間、二交代制で延々とパンにウインナーを挟んだり、フルーツを乗っけたり、具(例えばツナマヨネーズとか、卵とか)を入れたり、そういう仕事。

 衛生上、マスクをして、同僚と話をしちゃいけないという点も、私にとってとても良かった。

 誰とも仲良くならず、けして嫌われず、ただ一人でいられることは私にとても合った生き方だったのだ。

 新居の1Kマンションも、一人で暮らすにはちょうどいい広さで日当たりも良く、気に入っている。ジェロにはちょっと狭いけど、その分、お散歩に行ってあげればいい。

 トランク一個の中身はあっという間に部屋の中に呑み込まれて、私はなんの障害も、困りごともなく新生活をスタートすることが出来た。

 まあ、最初の内は数少ない友人たちの何人かから「今どこにいるの?」とか、「早く帰っておいでよ」というLINEが来ていたけど、すぐにアカウントを消した。そのまま、新しくは作っていない。新しく連絡先を交換する人なんていないから。恋人からは何度も電話や、似たようなLINEが来ていたけれど、私はそれさえも無視した。返事しそうな自分をなんとか抑えて、抑えて、見ないようにした。

 ジェロはお利口さんだから、そういうときはいつも私の膝の上に乗って、私の顔を見上げる。「ほんとうにそれでいいの?」って顔をする。

 まるで人間みたいなジェロがいたから、私はなんとかこうして上手いこと失踪して、今のところなんとかやっていけているのだと思う。

 わん、とジェロが小さく鳴く。はいはい、と言って、私は角を右に曲がった。

 道路を挟んだ反対側にある大きな家でも犬を飼っていて、ジェロは毎日、お散歩でここを通る時には挨拶代わりに一声、吠える。その家からは返事が返ってくるときもあるし来ないときもあって今日は返って来ないけど、きっとお家の奥の方でぬくぬくとあたたまっていて聞こえなかったんだろう。

 冷たく冷え切った夜の空気を思い切り吸うと、肺の奥まで澄み渡る気がする。

 こうして引っ越してくるまでは、こんな風に感じたことはなかった。ただ寒いから早く駅に着かないかな、とか、お布団から出たくないなあとか、そんなことばっかりで、目の前にある世界の色とか形、匂い、雰囲気なんてまるで目に入らなかった。新しい発見だ。人は自由になると、こんなにも敏感になって、感じやすくなって、それを味わうことが出来るようになるのだ。

 ふと、置いてきぼりにしてきた恋人のことを思い出す。

 彼と一緒にいる間も、別の色味で世界は輝いて見えてた。今とどっちがいいかを聞かれると困ってしまうけど、でも、あれはあれでかけがえのないものだった。

 どうしてあんなに好きだったのに、私は手放すという選択肢を選んでしまったんだろう? たまに、そう考えて落ち込んでしまうこともあるけれど、この一年間で私の心はどんどん上向きに、光注ぐ方へ育つ植物の芽みたいに伸びていっているから、どれだけ後悔しても、寂しくても、私の決断は正しかったんだって、思うようにしている。そうじゃないと心が折れて、また、元の生活に戻ってしまいそうだったから。

 私の恋人は既婚者だった。お互いに、全然そんなつもりもなかったのに、何故か結ばれてしまった。思いのほか二人は相性が色んな意味で良くて、八年もその関係は続いた。

 でも彼に離婚するつもりはなかったし、私も別に離婚して私と結婚して欲しいと思ったことはなくて、倫理観とか、彼の家族の気持ちさえ考えなければ何の問題もなかったのだ。

 人間は人間にこんなに愛情を抱けて、執着さえしてしまって、肩書でもなんでも上げてしまうことが出来るのか、ということが、私にはとても新鮮だった。これが恋なのなら、今までしてきたものは何だったんだろうと首を捻って考えてしまうくらい私は彼が好きで、好きで、しようがなかった。

 でも、何事にも必ず終わりというか、潮時は来る。それが一年前の私に訪れた状況で、私はそのまま、流されるようにして今いる街に流れ着いたんだろう。

 家のそばには大きな川があって、遊歩道の整備中で大掛かりな工事をやっている。

「早く工事が終わるといいね。そしたらもっと楽しく散歩できるようになるかも」

 ジェロに話しかけるが、彼は散歩に夢中で私の言葉なんて聞いてない。

 なんだか、そういうのが今は無性に心地よかった。

 誰にも声が届かなくて、誰の声も私に届かなくて、しんと静かな世界でうずくまっていられることが、何よりの癒しなんだと思う。

 好き、という気持ちは尽きないけど……いや、尽きないからこそ、私は壊れてしまったんだろう。そう、私は壊れてしまったのだ。今は世界とジェロが癒してくれる。多分、もうすぐ私は大丈夫になって、また人恋しさを感じるようになって、新しい世界へ飛び込んでいけるようになるはずだ。

 いくら楽で安心できるとしても、やっぱり心細くなる瞬間は訪れる。風邪で寝込んでるときとか、雨風が強くて窓ががたがた一晩中うるさくて眠れない夜とか。

 いつも足元で眠っているジェロの背中を撫でてそのあたたかさを確認すればすぐに気持ちが落ち着いて眠りに就けるけれど、もし、ジェロがいなかったら、私は一体どうなっていたんだろう。

「ねえ、ジェロ」

 話しかけても返事はない。ただ真っ直ぐ、彼は自分の興味が赴くままに歩くだけだ。何も考えていないとは思わないが、その単純さ、迷いのなさが羨ましい。

「……月が綺麗だから歩いて帰ろう」

 ふと、懐かしい曲が口をついて出た。

 学生の頃に何度も何度も繰り返し聞いた曲。あの頃は、この曲みたいに純粋で真っ直ぐな恋をして、結婚して、子供を産んで……そんな未来を当たり前のように信じていた。

 実際のところは不倫に疲れ果てて自分自身を取り巻く何もかもが嫌になり失踪しているという、真逆の人生をたどっているわけだけれど、でも、それでもこの曲は変わりなく美しくて、なんとなく泣きたいような気持になる。

「……話の続きをしよう……」

 うろ覚えの歌詞を唄いながら、私はジェロと歩いた。

 こういう恋が、彼と出来たなら良かったな、生まれ変わったら出来たりするのかな、なんて、寝言みたいなことを思いながら。

 そういえば月が綺麗ですね、って、夏目漱石がI LOVE YOU.を訳したときの言葉だったっけ。

 私は本当に、彼のことが好きだったんだなあ。

 好きになりすぎて、どうやって好きでいたらいいかわかんなくなっちゃって、ひとりで勝手に迷子になってしまった。

 辛かったけど、今より寂しかったけど、でもやっぱり、あの頃に戻りたいなあと思うけど、それは無理だよって、私の心と体が言っている。

 彼が私のことをどれだけ好きでいてくれたのかわからないけど……でもきっと、彼なりに私のことをうんと好きでいてくれて、大事にしてくれてたんだろう。今ならわかる、というか、今になってやっとわかった。

 ひとりぼっちの澄んだ世界でよく目を凝らせば、色んな思い出が何のバイアスもかからずに思い出せて、その中の彼の仕草や言葉、ひとつひとつに愛情と優しさを見出すことが出来る。

 ああ、うん、今この瞬間、彼の私への気持ちを信じられた、ただそれだけでも、こうして失踪して良かったと思える。

「でもいつかは 僕らの身体消えて

宇宙(ソラ)に溶けてゆく Love is gone

みえないチカラ感じ合えたら 

それはきっと 真実だろう……」

 唄いながら、私はジェロと夜の道を往く。

 さよならは言わないままでいる私を許してね。次に恋をしたとき、私はあっさりとあなたを忘れ去ってしまうかもしれないけれど……でもどうか、そのときまでは。

 

(タイトル・歌詞引用――FIELD OF VIEW / 「 君。」より)