美しい血肉

日々のことが美しくないなんて嘘だ。

夜のキャラバン

 錠剤をざらざらと飲み下し、お気に入りの毛布にくるまって横たわる。月の光も差し込まない真っ暗な部屋で、私は遠い旅に出る。
 目を閉じてじっとしていると、瞼の裏にぼんやりとした景色が現れる。それは隅々まで青白く照らされた砂漠を行くキャラバン。私一人だけのキャラバン隊。
 嘘みたいに大きくて死んだように白々とした三日月の下、吹き渡る風に舞い上がる砂埃にあえぎながら、私は大きな白い幌を被った荷車と二頭のラクダを従え、歩き続ける。
 いつからここを彷徨っていたのか……わからない。かつてはアメリカ西部の荒野だった気もするし、今、本当は荒涼とした月面を歩いているのかもしれない。まあ、月面であるのなら、あんな立派な三日月が見えるはずもないのだけれど。
 美しい記憶も、悲しい過去も、絶望的な惜別も、手を伸ばさずにはいられない温もりも、何もかもを荷車に積んで、私はただただ歩く。夜が明けるまでずっと。夜が明ける前に辿り着くため。
 私はふと立ち止まり、足元の砂を握ってみる。さらさらと流れ落ちていくそれは、まさに時の流れ。けして元には戻らない不可逆な存在。
 風に流れていく砂粒を見送りながら、私はかつて愛した誰かを想い出したいと願う。あの温度を、熱量を、湿度を、そのまま。しかしそれは決して叶わない。私は渇ききっている。冷めきっている。荷車に積んだものは全て過去。死に絶えた感情や記憶の山。
 歩み続けながら、私はとてつもなく深い海に沈み続けているような感覚に陥る。そここそが目指す場所のはずなのだけれど、何故、私は淡々と、この孤独なキャラバン隊を率いているのだろう。ああ、でもそれは、きっとイコールなのだ。垂直であるか、平行であるかの違いしかなくて、ただ、私が目指す場所はどうしようもなく遠いのだ。
 ざくざくと砂を踏む音。ラクダから漂う、この場には妙に不釣り合いな有機的な獣の臭い。全身にまとわりつく冷たくて乾いた空気、遍く光をこぼす三日月。
 足を踏み出す度に、私からも様々な感情が溢れて落ちる。寂しい、嬉しい、苦しい、楽しい、恨めしい、羨ましい、喜ばしい、誇らしい。
 かつて私にそんな感情を抱かせたのは誰だっただろうか。どんな人物だっただろうか。目指す場所に辿り着けさえすれば、私はその答えを知ることが出来るのだろうか。
 ああ、でも。

「おやすみなさい。いい夢を」

 足はぷつりと糸を切られた操り人形のように動けなくなり、意識は途絶え、私は今この「現在」すべてを置き去りに、この場に倒れる。何もかもを閉ざして。仮死状態にして。記憶の奥底に封じ込めて――そして私は今夜も、深い眠りに落ちる。

「さようなら世界、なんて言わせないよ。何もかもをまた夢に託して眠りなさい。そしてまた眩い生きた朝の光を浴びて、君は未来を生き続けるんだ」

 遠く、遠くで、泣き叫びたくなるほどに懐かしい、忘れたくなかった、誰かの声が聴こえた気がした。