美しい血肉

日々のことが美しくないなんて嘘だ。

月は腐敗を否定する

 月のない夜、僕はほっとする。まばらに散った星々の灯りと地上の灯りだけを頼りに歩く夜の、底知れない夜に守られているかのように。
 建設途中の公団の壁に設置された蛍光灯に照らされて、そこから顔をのぞかせるノウゼンカズラがまるで死体から零れ落ちる内臓や血のように群れて咲き群れて咲き、地面に落ちて無惨な枯れ様を晒している。
 ああ、花はどれも内臓に似ている。暗がりに息を潜める百日紅の花のピンクも、そういえばその色を模している……いや、模しているのは、僕たちの方なのかもしれない。
 強く握りしめたままのナイフの柄が、ぬるり、と、ぬめった。赤い。粘性の。液体。で。
 ぜぇぜぇと、僕は肩で息をしていた。
 足元には女だった物体が転がっている。脇腹から肋まで引き裂かれた傷口はやはり花盛りで、夏の、湿度の高い空気がその香りを僕の鼻腔まで届けてくれる。
 女は、顔も名前も知らない、不幸にもこんな夜中に僕とすれ違ってしまっただけだ。最近流行りのインナーカラーを施した長い髪、少しふくよかな身体に、綺麗に彩られた長い爪。どこにでもいる、ありふれた、そう、量産されたような姿形の、女。
 月のない夜に、僕は獲物を捜して町を彷徨い歩く。そういう風に、運命づけられている。月が早くに沈んだ後。月が眠る新月の晩。月が遅くまで昇らない夜。
 僕は月に監視されているから。朝も昼も夜も、月が空に浮かんでいる限り、僕はその視線から逃れられない。月は無言で、ただじっと、僕を見続けている――。
 返り血を浴びた服を脱ぎ、用意してきたTシャツに着替えると、僕はその場を立ち去った。
 誰に見られる心配もないが、服を通して肌に伝わる血の生温さが気持ち悪かったのだ。
 そう、僕は誰にも見えない。存在しない。僕は、僕の名は、「腐敗」。夏の夜にだけ存在を許されたもの。僕は人間の魂の腐敗を察知する。誘蛾灯に群がる虫たちのように、腐敗した存在は僕に呼び寄せられる。
 誰も彼もが寝静まった夜に、ひっそりと忍び寄るもの。果物も野菜も肉も逃れることが出来ない事象ならば、人間の魂もそうなのだ。太陽はその灼熱により腐敗を肯定する。大気は無限に孕んだヴァイラスや不純物によってそれを黙認する。僕を止められるのは、咎められるのは、冷えきった太陽の熱を反射し輝く夜の月だけ。だから月は僕を見続け、僕は月から逃れ続ける。
 ひゅぅ、と、僕は口笛を吹いた。きっとまた、魂の腐敗した何者かが僕の元を訪れるだろう。果たして、次の獲物は一体、どんな姿をしているだろう?