美しい血肉

日々のことが美しくないなんて嘘だ。

【試し読み】百合と変容

 椹木(さわらぎ)百合香の生まれて初めての記憶は、夢だった。二度と視(み)ることはない、しかしけっして忘れることのできない、夢。
 多分、季節は夏だったと思う。まだ梅雨の名残が居座っていて、激しい雨が降ったり止んだりしていた。鈍い灰色の空は重苦しく、覆い被さってくるようだ。
 六畳ほどの部屋に、ひとりで寝かされていた。熱でもあったのだろうか、額に玉の汗が伝い流れ、両手足の付け根が燃えるように熱くて疼く。
 障子戸一枚隔てた向こう側からは、強い風と雨の音がごうごうと聞こえていた。父も、母もいない。自分はそこで、昼寝をしていたようだった。あれは何歳ぐらいの自分だろう――きっと、五歳くらい。根拠はないけれど、そんな確信がなんとなく自分の中にある。
 ぼうっとする頭に、小さな足音が響いた。どうも、何かを探しているらしい。戸を開けては閉め、開けては閉める音が合間に聞こえた。
 どうしたのだろうと思っているうちに、自分の寝かされていた部屋の戸が開いた。その刹那、自分の腕に強い衝撃と痺れ、耳にどっという音を聞いた。
 あまりの出来事、あるいは夢だったからか。痛みは感じなかった。百合香は茫然と、そこから素早く自分のもう片方の腕と両脚が同じように切り落とされていくのを眺めていた。ただ、なすがままだった。
 左腕を切り落とされた時などは、びゅわっと血が吹き出る瞬間をはっきりと目の当たりにした。今もまぶたを閉じれば思い出せる。床も天井も、障子戸も赤く汚れた。それは外の暗さに冒され、陰鬱な色味をしていた。幼すぎた百合香には、ことの大事さは微塵もわからなかった。
 灰色の紗が掛かったような視界の中、赤が迸る瞬間だけが痛いくらいはっきりと目に鮮やかで、百合香は目を閉じた。そうしてまた目を開けると、次は病院にいた。
 気付いたらそこにいて、身体に包帯が丁寧に巻かれていた。鈍い痛みが脈打つように居座り、だるかった。病室の中は全てが白く清潔で、両の手足と引き換えにこの明るい場所をもらったのだと、その時は思ったものだ。
 本当は、彼女は生まれつき四肢を持たずに生まれてきたのだが、彼女はそれを知らない。
 百合香はこの不可思議な夢をすんなりと信じて誰にも言わなかったし、家族も皆、彼女の身体について語る者はいなかった。
 ただひとつ確かなのは、百合香はその夢から目覚めると同時に人として目醒めたということ。だから時々、自分が「人間」として在るために四肢を失うのは必要不可欠なことだったのではないかと考えることがある。でなければ今も、自分はずっと未分離な粘菌状の、ただ人間の形をしているだけの生物に過ぎなかったのではないか、と。勿論そんなわけはないのだが、しかし、どうしてもそれが真実のような気がして仕方のないときがあるのだ。
 百合香の両親はもちろん、祖父母も、他の周りの大人たちも皆、百合香へ惜しみない憐憫と、窒息してしまいそうなくらいに沢山の愛情を注いでくれた。けれども百合香がそれにいまひとつ馴染むことが出来なかったのは、そんな考えがいつも頭の片隅にいたからかもしれない。
 四肢を持たず、自由の利かない身体を可哀相と言われても、百合香にはそれが当たり前で、どうして可哀相なのか解らない。確かに、ここで腕があったら、歩けたら、と思う場面はあるけれど、それは例えば自分の顔がもっときれいだったら、とか、もっと身長が高ければ、とか、そういった願望と大差ない。自分には両の手足がないけれど、いつも助けてくれる人が周囲にいる。恵まれている。もう、それで充分なのに。
 百合香はいつもそう思い、しかし周囲には一言も言えないで、ただ黙って微笑むばかりだった。
 もしかしたら、周りの大人は彼女の胸の内をわかっていたのかもしれない。なぜなら、百合香は途方もなく美しい容貌をしていて、なかでも少し困った様に微笑んだ顔はまさにその名の通り、白百合の蕾が開くようだったからだ。
 悲しませてでも、困らせてでもいい、その微笑を何度でも見たいと思わせるほどに、本当に、百合香は美しかった。皮肉なことに、四肢の無い歪な身体が、それを更に引き立てていた。
 さて、そうして十一年の月日が経ち、百合香は十六歳になった。冬と春の境目のその日は風がなく、日差しもあたたかかった。
「せんせい、遅いわねえ」
 真っ白なシーツの上に、百合香の美しい緑髪が豊かに広がっている。窓から差し込む陽光を受けて、それは青く光って見えた。
 寝台の上に横たわる百合香からは、窓の外に雲ひとつない青空しか見えない。いつも傍にいてくれていた看護婦には暇を出してしまったし、百合香は退屈だった。
 百合香の身の上を百合香の分まで嘆いてくれていた肉親は、皆他界してしまっていた。父は八歳のとき、母は十歳のときに相次いで労咳(ろうがい)で、祖父は二年半前に心臓病で亡くなった。祖母は生きているものの、心は彼岸へ旅立ってしまっていた。今は同じ病院内にある別の病棟で静かに暮らしている。
 頼れる肉親をことごとく喪った百合香は、祖父が懇意にしていた医師が開いた病院の特別室に入院というかたちで転居した。とはいえ、面倒を看てくれていた看護婦は小さな頃からずっと一緒であったし、彼らが健在であった頃とこの病院に来てからとで、暮らしぶりはほとんど変わらなかった。
 しかし今、この部屋を見渡しても、彼女の物はひとつも見当たらない。横たわる寝台と作りつけの棚があるだけで、その中身も空っぽだ。それは物を必要としない生活を送っていたからではなく、百合香は今日、結婚をして、この部屋を出ていくことになっているからなのであった。
 結婚は、予め決まっていたことだった。互いの祖父が許嫁として取り決めをしていたらしい。相手はこの病院の創業者である藤崎(とうざき)騏一郎の孫、藤崎朱(しゅ)一郎(いちろう)。百合香の主治医でもある。
 朱一郎は今年二十五になる青年で、専門は外科だ。藤崎の一族は代々、優秀な外科医を輩出している名家でもある。百合香の主治医を務めるには朱一郎は専門外の分野となるが、将来の伴侶となる事情も含みで、百合香の担当をしているのだ。
 朱一郎は二男で、今は海外に留学中の二つ上の兄がいるが、騏一郎は彼のことを格別に可愛がっていたらしい。
 二男とはいえ名家の人間が何故、自分のような不具な者との結婚を強いられ、しかもそれを承諾しているのか、百合香には不思議でしょうがなかった。彼ならきっと、嫁の来手などいくらでもあるだろうに。
 四肢のない自分は、何をするにも誰かの助けが要る。食事をするにも、入浴も、排泄さえ、誰かの介添えが必要だ。とても大変で、しかもそれが何十年も続く。そんな負担を掛け続けなければならないのかと考えると、百合香はなんとなく胸が重苦しくなる。しかし、それ以上に百合香は彼を好いていて、嬉しい気持ちがあるのもまた、本当のところでもあった。
 朱一郎はとにかく百合香に優しかった。
 初めて顔を合わせた時、彼は彼女の歪な姿を見ても、ただ穏やかに微笑んでくれた。「よろしくお願いします、僕のお嫁さん」などとおどけてもみせた。診察の時も、たまたま散歩――一日に二回、百合香は車椅子に乗せてもらって、病院の敷地内を散歩するのが日課だった――のときに行きあった時も、朱一郎は百合香には格別の親しさを匂わせた。声を掛けて、前髪を切ったとか、薄く化粧をしてみたのを見つけては褒め、彼女の体を常に気遣った。よく眠れているか、痛むところはないか、具合はいいか。それこそ本当に、患者ではなく家族や恋人を心配するような調子で、朱一郎は百合香に接した。
 まだ年若く、世間に触れる機会も極端に少ない彼女が、朱一郎にうっすらとでも心を奪われてしまうのも無理はなかったろう。そしてそれだけに、百合香は朱一郎の真意がわからずに煩悶するのだ。
 人にはそれぞれ運命があり、それ以上も以下もない。目の前の現実を直視して進んでいくしかない。身の程を知り、慎ましく、実直でいればどんな姿形でもけして不幸になることなく生きていける。それは恵まれた環境であってもままならぬ自身の身体、運命に対するある種の諦念であり、百合香が知らず知らずのうちに身につけていた処世術かもしれない。そのように日々を思い過ごしている百合香にとって、朱一郎との結婚は降って湧いた幸福だった。身に余る、大きな代償を最後に払わなくてはいけないと思わせるほどの。
 朱一郎は一体いつから、百合香との婚約を知っていたのだろう。何故、拒絶しなかったのだろう。
 朱一郎を待つ間、百合香の思考はどんどんと沈んでいった。得体の知れぬ何かに絡め取られていくようでもある。
 結局、朱一郎が百合香の病室を訪れたのは、約束の時間を一時間過ぎた頃だった。
 がちゃりと音がして、扉が開かれる。ほど良く暖房の効いたあたたかな部屋に、廊下の冷えた空気が流れ込んできた。
「遅くなってすみません。患者さんが急変してしまって」
 百合香と違ってあまり艶のない、柔らかそうな黒髪を耳の上で短く切り、銀縁の眼鏡を掛けている。その奥の瞳は柔和だが、急いで走ってきたのだろう、呼吸は荒く頬が紅潮し、髪もぼさっと乱れていた。
「大事な日だというのに申し訳ありません。待ちくたびれてしまったでしょう」
 朱一郎は百合香の傍へ駆け寄り、両の手で彼女の頬を包んだ。それは冷たく、張り付いてもう剥がれないような不思議な感触だった。
「……いえ、大丈夫です。そのような事情でしたら、仕方ありませんわ」
 突然に示されたその、深く踏み込んだ親しさに百合香ははっとした。
 患者と医師という関係から夫婦になるために必要なものが何もない。埋められていない。互いの亡き祖父同士が交わした約束という細い糸が辛うじてふたりを繋ぎとめているにすぎないのだ。しかし朱一郎はそこを飛び越え、百合香の不意を打った。
 触れられたところから熱が生まれる。水を熱したとき、底の方からゆらゆらと滲み出るあのくゆりのように。あるいは音もなく忍び寄り、一夜で蕾たちを満開に咲き誇らせる春のように。
 朱一郎の真意が見えない。わからない。自分のこれからが見えない。理解できない――それでも。
 百合香は朱一郎への幽(かす)かな思慕が今、しっかりと根付き、芽を出したことを自覚した。
 恋を、したのだった。