美しい血肉

日々のことが美しくないなんて嘘だ。

はじまりのおわり

 カツカツカツ、という靴の音が、がらんとしたフロアに響く。喪服に身を包んだ女性が奥の方から歩いて来ていた。
 十五年も続く世界大戦による電力不足で、フロアの中は薄暗い。その中で彼女はより一層暗い、影のように見える。
「おや、モレー教授」
 そんな彼女へ、初老の男性が声を掛けた。
「どちらへ行かれるのです? 医務室は反対方向ですよ」
 男性は急いでいるようで、早口で問う。
「私は参加しないので」
 モレーと呼ばれた女性はそれだけを答え、歩き去る。
「……なんと」
 男性は驚いた声を出したが、それ以上話している余裕はなかった。あと五分以内に医務室へ行かなくてはならない。
「せめて、神の慰みがあらんことを」
 彼の声が届いたかはどうかはわからない。モレーの背中は規則正しく響く靴音と共に遠ざかり、男性もまた、早足で歩き去ったから。
 モレーは大きな窓へ近付くとその前で立ち止まり、外の景色を眺める。
 そこにはパステル調のピンク、イエロー、ブルーなどにカラーリングされた飛行機がお行儀よく並んでいた。
「本当に、終わりが始まるのね」
 小さな声で呟く。それは誰に聞かれることもなく揺蕩い、消えた。
 優秀な科学者であった彼女に「人類を抹消する兵器を作れ」という命令が下ったのは、僅か一か月前のことだ。
 長く続く戦争は、保有国全てが核のスイッチに手を掛け、誰が初めに押すのか、というチキンレースの体を為すまでに泥沼化していた。そして国連がとうとう「人類にこれ以上明るい未来は望めない」という結論を下し、人類だけを滅ぼす毒の開発を秘密裏に承認したのだ。
 モレーは時間を確認する。二分後、飛行機たちは自分たちの生み出した毒を世界各国へばら撒くべく飛び立ってゆく。
 開発に携わった学者たちには、特別に安楽死の権利が与えられた。この毒は人類に安寧な死を約束するわけではない。ただ脳に「自殺を強制する」だけの毒だ。一瞬で逝ける者もいれば、苦しみぬいて絶命する者もいるだろう。
 人類が絶滅すれば確かに戦争は終わり、世界は平和になる。しかし――こんな方法しか、本当にもう残されていないのだろうか?
 チッチッチッ、と、時計の秒針が時を刻む。こうして悩んでいても時は待ってくれない。飛行機たちがゆっくりと滑走路を滑り出してゆく。
「もし、私たちがすべて間違っていたのだとしても――」
 この選択が本当に正しいのかを確かめることが出来たならいいのに。
 モレーは小さなアンプルを取り出し、静かに自分の左腕へ突き刺した。