美しい血肉

日々のことが美しくないなんて嘘だ。

【試し読み】この命をくれてやる。

 深夜の弁当屋を出ると、ずいぶん冷たい風が吹き込んできた。まだ九月になったばかりだと思っていたのに、気付けば十月まであと数日。そろそろ秋冬の服を出さないといけなさそうだ。

 月のない空は暗く、陰気で重い灰色をした雲がのっぺりと浮かんでいる。肌寒さに自分で自分を抱き締めるように腕を組み、帰路を急いだ。

 ここ一週間ばかり客のつきが悪い。来週の今頃もこんなだったら、危ないけれどもっと駅前の、賑わった所に出ていく羽目になりそうで嫌だった。

 ああ、嫌だ嫌だ。早く帰ろう。雲が空だけでなく私の心まで被さってくるような感じがする。

 家は家で地獄だけど、それでもいい。少なくともあそこには、賢治がいる。

 コンクリート打ちっぱなしの、殺伐とした外見のマンション。ここの二階にある部屋、が私と賢治の「愛の巣」だ。

 人気のないエントランスに入り、階段を上がる。午前二時を過ぎたマンションはひっそりと寝静まり、外廊下の蛍光灯がぼんやりと頼りなく灯っている。

 鞄から鍵を取り出し、ドアに差してくるりと回す。

 ドアを開けると、血と腐臭の入り交じった、なんともいえない饐えた臭いが押し寄せてきた。

 明日は生ゴミの日だ。まとめないと。

 短い廊下を進み、突き当たりのガラス扉の向こう、リビングに行く。

 小さなテーブルの上には仕事に行く前に食べたパンの残りと飲みかけの珈琲がマグカップに入ったままで置かれている。その横に雑誌がばらばらと積んであった。

 出掛ける前と同じ。今日も賢治は変わらない。

 私は買ってきたお弁当と荷物を置いて、賢治の部屋に向かう。近づくほど、臭いが強くなる。

「賢治、ただいまー」

 引き戸を開ける。悪臭が襲いかかってくる。閉め切られた部屋の粘ついた空気。もやっとした熱気。

「鴇子、おかえり」

 そんな中、帰宅した事を告げると、機嫌の好さそうな声が返ってきた。

「ご飯、買ってきたよ。お弁当だけど。食べる?」

 床に座っている賢治のもとにしゃがみこみ、目線を合わせる。血の臭いが一層強くなる。

 賢治はこっくりと頷き、笑った。

「最近は鴇子の帰りが早くて、一緒にご飯で嬉しい」

 正直なところ、帰りが早いというのは稼げていないということなので、あまりいいことではないのだけど……賢治の顔が綻ぶのを見るとまあいいか、という気持ちになる。

「そだね。私もだよ。今日は一緒にお風呂入ろうか」

「お風呂、好き」

「賢治はイイコだな! さ、手洗っておいで」

 賢治の足首につけている枷を外すと、彼はすっくと立ち上がった。

 黒いTシャツに下はトランクス一枚。痩せ細った手足には黒ずんだ血がべっとりと付着している。

「賢治、足もね! 血ぜんぶキレイにして!」

 大きな声で言うと、遠くからはーい、という返事が聞こえた。

 

 日本に帰化した南米原産の毒蜘蛛が突然変異を起こし、カーリーという毒を持つようになったのは二十年ほど前だった(と、専門家の間では推測されている)。その毒に冒された人たちが様々な事件を起こしたことで世の中に認知されたのが十年前だ。

 カーリーは数年から数十年をかけて脳内を破壊し、変質させてしまう。その結果MRDRという本来存在しないホルモンを生成し、それが働かなければ脳がブドウ糖を受け取れないようにする。MRDRが働く条件はただひとつ。――「人を殺すこと」。

 毒名はインドの殺戮の女神に由来しており、これらを総称してK症候群と呼んでいる。

 K症候群が発症すると、もう脳組織を元に戻すことは出来ない。およそ三ヶ月に一度、人を殺さないと生きていかれない身体となる。

 K症候群の存在が公になったのは、立て続けに三件の無差別通り魔事件と十件の連続殺人事件が起きたことがきっかけだった。犯人は全員が逮捕されたが、次から次と無尽蔵に発生する殺人事件で国内はパニックに陥っていた。

 当時、私は大学進学のために上京して来ており、アパートで一人暮らしをしていた。そこへある冬の日の真夜中、賢治が突然訪ねて来たのだ。

 彼とは違う大学に通っていたが一緒に上京した幼馴染みで、中学の時から恋人として付き合っている間柄でもあった。

 こんな時間に……と不思議に思いながらドアを開け、卒倒しそうになった。今でもあの光景は脳裏に焼き付いて忘れられない。

 赤黒く染まった身体。片手には知らない男性と思しき胸から上の部分を持ち、もう片方の手にはそこから引き千切ったであろう腕を持っていた。

 叫ぶことも出来ずに立ち尽くす私に、賢治は虚ろな目をして言った。「俺もカーリーだ。殺してくれ」、と。

 だけど私はそうしなかった。急いで彼を風呂に入れ、全部を身綺麗にさせた。

 K症候群の患者を見つけたらすぐに警察へ通報し、身柄を引き渡さなければならない。その後、彼らは診察を受け、K症候群だと確定し次第、専門の施設に隔離される。その後、どうなるのかは、誰も知らない。

 賢治は殺人の直後で比較的に意識がしっかりしていたが、ひどく混乱していた。とにかく死にたい、施設には行きたくないと泣きながら私に繰り返した。

 私は何故、あのときに彼を匿おうと思ったのだろう。何処まででも、二人でなら逃げられると確信したのだろう。

 背筋から一本、冷たい液体を流し込まれたみたいに、私は冷静だった頭の中で想像出来る限りの可能性を仮定し、シミュレーションし、決断した。

 その夜の内に私は左手を包丁で切った。不思議と痛みはなく、淡々と、無感情に、床に出来る血溜まりが大きくなるのを眺めていた。記憶は確かにある。傷跡も残っている。でもあの時、自分が何を感じ想っていたか――それだけが思い出せない。

血が止まってから手当てをし、賢治名義でレンタカーを借りて逃げた。一晩も二晩も走って、走って、出鱈目な所に乗り捨て、電車とバスを乗り継いで、縁もゆかりもない今の街へ辿り着いた。

 世間では私は生死不明の行方不明者となり、今では戸籍上死んだことになっている。賢治は私の誘拐と殺人容疑で指名手配中だが、大して大きなニュースにはならなかった。

 部屋に残してきた男性のバラバラ死体と私の血痕から、K症候群を疑い、警察あたりが情報管制を敷いたのかもしれない。

 でも、まだ確定されていない。賢治を捕まえて直接調べない限り、不可能だから。

 ――それが十年前のこと。永くて短い日々。

「鴇子ぉ、タオルちょうだいー」

 洗面所から賢治の声が聞こえてきた。

「はいはい、今行くからねー」

 私は立ち上がった。べりっと膝下で何か剥がれる感触があった。見ると、血がついている。心なしか生臭い。

「鴇子ぉ?」

「はいはい、今すぐ!」

 これが私の日常だ。

私は構わず、急いでタオルを取りに行く。