From a distance far
窓越しに蝉の声が聴こえてくる。
北向きの部屋には早朝でも陽は射さず、肌寒い。薄い灰色のフィルタがかかっているような空気。空調の音が耳鳴りのように聴こえる。
私は十年前に使っていたような、灰色の手のひらサイズの携帯を手にしている。横3センチ、縦1・5センチ四方の画面は安っぽい黄色の光を灯し、通話中の画面になっていた。通話時間は七時間を越えている。
携帯をそっと、耳に押し当ててみた。ざらざらとした、微かな風の音のようなノイズが聴こえるだけだけど、その向こうにある気持ちはこれ以上なくはっきりと流れ込んでくる。
十年ぶりの君へ、ハロー、ハロー。
君はどんな大人の女性になったんだろう。あの頃はまだ、高校の制服を着ていた。とてもじゃないが、僕には想像が出来ない。
手を放してしまったけれど、僕は今でも君の事が好きだよ。愛していると、言ってもいい。お揃いで買った指輪はもう錆びてしまったけれど、大切に、大切に、とってある。今思えば、もっといいのを買ってあげればよかったと思ったりして。
僕は今もひとりでいるよ。そして、とても寂しいと凍えて、こんな風に君に電話をかけてしまっている。
声を聴きたいとか、また会いたいとか、そういうんじゃないんだ。
ただ、また繋がれるということ。同じ世界、同じ時間、同じ空の下、存在しているっていうこと。ただ、それだけ確かめたら、僕は大丈夫になれるんだ。また明日を迎えられるんだ。
思念は、ラヂオのように劣化した音声で私へ直接響く。
年上だった彼はヘヴィースモーカーで、いつも声が少しかすれていた。キスをするときの、あの、くぐもった煙草の匂いまで思い出せる。
携帯を耳から離し、もう一度画面を見つめる。涙を流す代わりに、私は溜息をつく。
私はもう高校生ではないし、彼は何年も前に死んでしまった。携帯はもう、充電すら出来ない代物で、電源が入るわけもない。
しかし真夏の今頃、彼からは必ず、この携帯に電話がかかってくる。そして優しいノイズを私に伝え続ける。
彼の魂は今も生きて、私のことを見続けている。
このことに意味はないだろう。こんな思い出の亡霊に縛られ続けることはいいことではないのだろう。
けれど私は、彼の電話を受け続けずにはいられない。
私が初めて、好きになった人。きっと、一番に愛した人だから。
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気付けば眠りに落ち、起き上がったときにはもう、通話は途切れていた。
電源ボタンを長押ししても携帯はうんともすんとも言わない。
「…また来年、逢いましょう」
うすぼんやりした意識のまま、別れの言葉の代わりに約束を呟く。
夢か現かわからない、けれど、それでもいい。また会えることが希望であり、私にとっても、明日を迎えるために必要なのだから。