美しい血肉

日々のことが美しくないなんて嘘だ。

Spring

「はあぁるぅのおおがあわーは さーらーさーらーゆーくーよー」

昼過ぎまで雪が降っていた哲学の道を、花音が唄いながら歩いていく。私は少し距離を保ちながら、その背中を追うようにして歩いていた。

 アスファルトで固められた道と道の間にある奈落を、透明な水がさらさらと流れていく。これは小川なのか、それとも用水路とか、そういうものなのか、なんと言ったらいいんだろうと考えながら、人目も気にせずに、水と同じくさらさらと唄い続ける花音の後ろ姿を漫然と眺める。

「きぃーしのすぅみぃれーや れーんげーのはぁなぁにー」

二月も半ばを過ぎたこの頃は陽が大分伸びた。民家の隙間から覗く山々の向こう側が赤く、ぼうぼうと燃えているようだ。空にはダイヤモンドみたいな一番星が光っている。あの空が燃え尽きた頃、夜が来てしまうんだろう。それまで、あと、どのくらいの猶予があるんだろうか。

人通りの少ない道端の、積もって間もない雪を足で踏みつぶす。少し水っぽいそれはぐしゃりと崩れ、水の中に零れていった。

「すぅーがーたやーさーしーく いぃーろうーつぅくーしーくー」

花音は、私のことなんてまったく気にせず、振りかえらず、唄い続けている。気づけば車止めに乗り、平均台の上を歩くように、ゆらゆら揺れながら歩いていた。

ああ、危なっかしい。そういえばそうだ、あの子は車止めとか、手すりとか、少しだけ高い所に上って歩くのが好きだった。いつもなら、見つけたそばから駆け寄って、背中を支えてあげた。そして、手を繋いで歩いた。何度も、何度も。

「さぁーけーよ さぁーけーよーと さぁさぁやぁーきぃなぁーがーらー」

ああ、遠い日々だなあと思う。いつも二人で過ごした日常が、もう、十年も前のことだなんて。

今、ここで、私がひょいっと横道にそれて隠れたら、彼女は気づくだろうか。私がいなくなったことに慌てて、探したり、狼狽してくれるだろうか。もし、そうしてくれるとして、その気持ちは、私が今感じているのと同じくらいの強さだろうか。それとももっと?あるいはまったくそんなことがなかったりして。

そこまで考えていたらなんだかいたたまれない気持ちになって、目線を花音の背中から空へ移す。そしてそれを誤魔化すみたいにして、

「陽が、延びたね」

と、ぽそりと呟く。すると、「でもあんまり寒いから、あたたかくなるってこと、忘れちゃうよね」と言って、花音がこちらを振り向いた。

独り言が届くほどの距離だけど、薄暗さで彼女の表情ははっきり見えない。でも、眉間に少し皺が寄っているような気がした。怒っているように、見えた。そうして、私は花音が、私とおんなじ寂しさを抱えていたことに、気づいた。

あと数時間したら、私はこの街を離れる。今度はいつ逢えるだろう。

いつまでも一緒にいられると信じていた日々は色褪せ、私は明日を信じない。そして朝が来ることを知らない花音にとっても同じだから、私たちはきっと、次の約束なんてしない。未来なんて、大切なものを蝕む毒にしかならないんだ。

今。ただ、今だけを、私たちは必要としている。この瞬間、一瞬で遠ざかる煌めき、手触り、それを私も、彼女も、必死で記憶や肌に焼き付ける。それだけを目的に呼吸をして、日々を過ごしてやり過ごして、次に巡って来る「そのもの」とぴたり当て嵌める瞬間を待つ。

 

街全体が文化遺産みたいなものだからだろうか。私が住む街より、街灯が灯り始めるのが随分と遅いような気がした。まだ燃える空の底、薄暮に沈んだ景色の中を泳ぐようにして、私は花音の元へ駆け寄った。

無防備に冬の中へ投げ出されてた花音の手を握ると、死人のようだった。同じようにしていた私の手も冷たく、痛いくらいだったけれど、それよりもなお、冷たい。

哲学の道を抜け、私たちは車通りの激しい大通りへ出た。たぶん、この道にも名前が付いているのだろうけれど、私にはよくわからない。

ずらりと並ぶ水銀灯の光がぴかぴかと宝石のようで目に眩しく、なんだか異世界めいて見える。見なれない景色。なんだかわけもなく寂しさを誘う。

どうして、私はここにいるんだろう。どうして、私の家はこの街に住んでいないのだろう。意味もなく、そんな気持ちになる。

「あはは、夢子の手、あったかいね」

目を僅かに伏せて、私の肩先で花音が薄く笑う。微笑みじゃない。何かを諦めるために必要な儀式みたいな、そんな表情。

「……新幹線、何時だったっけ」

「んと、19時半」

手をふわりとたなびかせるみたいにして、花音が繋いだ手を解いた。ぺたぺたっと小走りになって先を行き、こちらを振り返る。街明かりに照らされて、彼女の輪郭が銀色に光って見えた。もう二度と取り返せない、一瞬の光り方だった。

 

その後、私たちは近くのファストフードのお店でもそもそと、言葉少なに食事をして、別れた。

逢おうと思えば、そんなに難しい距離ではない、でも、だからこそ、逢えない。私も花音もきっと、別れを惜しめばいいのか、軽んじればいいのか、いつまでもわからないんだと思う。

彼女を好きだと思う。その形容詞がなんなのかはわからないけれど、愛しいと思う。

私は新幹線のシートを倒し、携帯のカレンダーを眺めながら、次のことをぼんやりと考えた。