美しい血肉

日々のことが美しくないなんて嘘だ。

【試し読み】仔羊の観測

 うららかな、春の初めの陽射しがふんだんに降り注ぐ午後。男はゆらゆらと、まるで目的を失った回遊魚のようにして街を彷徨していた。

 時に煙草をふかしながら、時にビールを片手に持ちながら、夜になるまでをそうしてあてどなく歩き回るのが彼のルーティーンで、意味はない。

 ただ淡々と、変わり映えのない景色を眺め、何かひとつでも相違点がないかどうか点検するように、しかし実のところ、男の目は何も捉えてはいない。ただ漠然と、求めているものが何かを求めるようにして、男は歩き続けていた。

 いつからそれを始めたのだろう? わからない。それが当たり前だった。産まれてすぐの仔馬がまず最初に為すのは己の脚で立ち、歩くことだ。それぐらいに、この日々のルーティーンは必然とさえ言える、習慣そして男の人生の根幹を為していた。

 幸い、出所はわからないが彼には生活に困らないだけの資産があり、一日中をそのためだけに費やす余裕があった。

 風は冷たいものの陽射しが強くて、不意に息苦しさを感じる。いつの間にこんな気候になったのだろう。まったく、春はある日突然に、強引かつ忍び足でやって来る。

羽織ったツイードのジャケットが少し重苦しく感じられたので脱ぎ、左腕に持って肩へばさっと掛けた。

 少し休憩しようと思い、男はベンチを探した。そのうちに記憶にない大きな公園――いや、庭園という方が相応しいかもしれない――の入り口を見つけた。

 その庭園には芝生が広がっており、その縁をなぞるようにして季節の花々が植えられていた。それらはとても目に鮮やかで美しかったが、何故か誰一人として散歩している人間は見受けられない。人の多いところは苦手だ。丁度いいと思い、男は庭園に足を踏み入れた。彼の肩ぐらいの高さで造られた門があったが、そこに庭園名を示すプレートは貼られていなかった。

 確認した通り、見渡す限り人影はない。しかし庭は良く手入れされ、神経質さを感じさせるほどに整っている。

 男は煙草に火を点け、花々の脇をまた泳ぐようにゆらり、と歩き出した。ベンチを探そうという目的は、いつの間にか男の中から忘れ去られていた。

 足元で咲くのはビオラだ。それらが時たま、吹く風に揺れるだけの変わり映えしない景色なのに、それは男を妙に興奮させ、魅了した。手入れされすぎて逆に無機的に思えることが、男にとって心地よかった。

 どこまでも広がる芝生を、花を、なぞるように歩く。いつしか風も止んで頭上には穏やかな青空が広がっている。まるで時を止め、永遠の中へ迷い込んでしまったような感覚に、ぞくりとした快感を得る。誰も立ち入りが許されていない場所へ踏み入ってしまったような。何処まで行っても終わらない迷路の中へ立ち入ってしまったような、そんな。

「おや、珍しい」

 不意に声を掛けられ、男は身構えた。

 「立ち入り禁止でしたか?」

 不審者扱いされることには慣れている。思わず慇懃に応え振り返ると、笑い皺を深く刻んだ初老の男が佇んでいた。

「いいえ。でも、ここは見つけにくいみたいで、滅多にお客さんは訪れないんですよ」

 白いシャツに黒いスラックス、麦藁帽をかぶり足元はゴムの長靴というちぐはぐな格好の彼は、灰色の目を細めにこやかにそこに立っていた。

「ああ、そうなんですね。」

 だからこそここを選んだというのに。内心、舌打ちをしたいような心持ちで、男は当り障りのない返事を返した。会話するのは苦手だ。出来るだけ、手短に済ませたい。

「私はここの管理人なんです。やぁ、お客さんが来てくれるのは、やはり嬉しいものですね」

 管理人だ、と名乗る初老の男はそう言って、さらに相好を崩した。

「ちょうどね、花を植え替えたばかりなんですよ。三色菫がまだまだ綺麗ですが、ペチュニアも混ぜてみたんです。もうそろそろ、時季が終わってしまいますからね。ペチュニアの緑に花の色が映えて綺麗でしょう。これから暖かくなって、蕾がつくのが楽しみですよ」

 男の気持ちを知ってか知らずか、管理人は捲し立てるかのように話を続ける。

「お住まいはこの近くですか?」

「ええ、散歩に来られるくらいには」

「ほう、それはいいですね」

 他愛ない天気の話から、管理人は男の年齢や仕事を聞き出した。

 無論、本当のことなど言いはしない。面倒だ、と思いながら、男は適当な話をした。年齢は三十五歳。仕事はライター。ちょうど大きな仕事が終わり、一年ほど休暇を取ることにした……よくもまあ、これだけすらすらと嘘の話が出てくるものだ。自分で自分に関心しながら、男は管理人と雑談を続けた。

「そうだ、近くに私の家があります。よければそこで、お茶でも飲みませんか」

 会話を終わらせ、出来るだけ早く立ち去りたいと思っていたのに、男は何故か、管理人の言葉にいいですよ、と答えていた。

 一体どうして? 自分で自分に疑問を抱きながら、しかし少しだけ面白がっている自分もいる。男は退屈していたのだ。日々、街を彷徨い続ける生活に。

 ふたりは並んで、ゆっくりと歩き出した。十分も歩けば、管理人が住む家があるという。

 無言のまま、ただ同じように見える景色を淡々と行く。ただそれだけなのに彼は何故か、この男には心を開いていいような、そんな感情を抱かせた。

 管理人の家は小さな二階建ての、家というよりは小屋と呼ぶのがいいような小さな建物だった。白く塗られた外壁に、くすんだ赤色の三角屋根。その頂上に小さな風見鶏と十字架が飾られている。

「ここは教会?」

 問うと、管理人はゆっくりと首を横に振った。

「いいえ。近いものではありますが、厳密には違います」

 そして今もまだ目の端に広がっている芝生の方へ、さっと手を広げる。

「ここは墓地なのです」

 ぐら、と、男は眩暈を感じた。黒い影が兆す。大きなカラスが、男の頭上を飛び去って行った。

「公園ではなかったのですね」

「まあ、それも間違いではないのですがね。その程度の、立派で大げさな場所ではありませんから」

 管理人は謙遜するように眉を八の字にして微笑んだ。

「さあ、どうぞ。お入りください」

 ドアを開け、招じられるままに男は中へ足を踏み入れる。

 中はカーテンが閉め切られているために薄暗かったが、清潔感があった。

 食器棚の中はよく整頓されており、細々したものは壁の戸棚に仕舞われている。テーブルの上にはシミひとつない生成りのリネンが敷かれていた。

 管理人はさり気なく椅子を引き、水が流れるかのように自然に男を座らせた。 

 今までの人生のなかで、こんなことがあっただろうか? 他人と必要もない会話を交わすだけでなく、ふたりきり、場を共にするなんて。

 これまでになく不自然な出来事だ。小さな違和感が心の表面にさざ波を立てる。何となしに居心地が悪い。

 男はそのことを悟られないよう、努めて口角を上げ、管理人を見た。

 テーブルに対してキッチンは平行になる位置になっていたため、男は細々と動く管理人の背中を眺めるかたちになる。

 彼はカーテンを開け、水を注いだケトルを火にかけた。ぱっと明るくなる室内、しゅぼっという音とともに一瞬、鼻を掠めるガスの臭い。食器棚からティーポットを出してコンロの脇に置き、男の前に位置する椅子に座るとテーブルの上に置いた菓子箱の蓋を開け、男にそれを勧める。

「頂き物の焼き菓子です。お嫌いじゃなければどうぞ」

 管理人はどこまでも柔和で、世話好きのようだった。あるいは、滅多に人の訪れないこの孤島のような場所で久しぶりに人間に会えたことが嬉しかったのかもしれない。

 湯が沸くまでに、ふたりは他愛のない話をした。それは天気だとか街の様子だとか、話したそばから忘れられていくような、そんな内容のこと。

 他人と交流しない主義の男にとってそれは若干の苦痛を伴ったが、次第に新鮮で興味深い時間へと変わっていった。今まで見えていた世界が濁ったセロファン越しの世界であったなら、管理人との時間はそのセロファンが取り除かれた、鮮明な世界だった。

 自分以外の他者が何故、他者の存在を求め対話を必要とするのか、その輪郭がおぼろに浮かび上がってくるような気がする。あくまでも気がするだけで、やはり自分には必要と思えないのだがしかし、その新しい発見は男を心なしか安堵させる作用を持っていた。

「おや、お湯が沸いたようですね」

 シューッという音がしたのをきっかけに会話が中断され、管理人が立ち上がった。

 ゆっくりとした動作で丁寧にケトルを持ち上げ、まずはティーポットに湯だけを注いで捨てる。それから茶葉を入れてまた湯を注ぐ管理人の一挙一動を、少し焦点をぼかすような視線で眺める。ケトルの口から流れ出る流線が、真正面にある窓から差し込む陽射しを受けてメタリックに輝いていた。

 管理人は温まったティーポットに、それぞれ違う柄のティーカップを添えてテーブルの上へ置いた。

「本当はポットと揃いのカップがあったんですが、私の不注意で割ってしまって。少し不格好ですが、気にしないでください」

 そう言って紅茶で満たされたティーポットにそれぞれ違う柄のティーカップを添えてテーブルの上へ置いた。

 温和な声とともにとぽとぽと、丁度良く煮出された紅茶がカップの中へ、香り豊かに流れ込んでゆく。

 室内いっぱいに、バラのような匂いが立ち込めた。外の芝生とあまり香らないビオラが咲く庭園より、ここの方がよほど庭園らしい気がする。

 管理人の仕草、表情、言葉には、無碍にできない何かがあった。日々庭園を整え、死者を見守り続ける生活が、彼にそのような雰囲気を纏わせるようになったのかもしれない。

 二人は紅茶を飲みながらまた、会話を再開した。それは酸素のように当たり前にある、毒にも薬にもならない内容ではあったが、男はもう、それを不快に思うことはなかった。

「もうすぐ三色菫の時季も終わるので、そろそろ、芝桜を植えようと思うのです」

「さきほど、違う花を植えたと言っていませんでしたか」

「ああ、ペチュニアが咲くまではまだ時間がかかりますからね。三色菫と入れ替えに、芝桜を」

 これから咲くというペチュニア、という花がどんな花なのかを男は知らない。だからきっと、ビオラが三色菫のことなのだろう。紫、黄色、白色に彩られた花びらを思い浮かべる。なるほど、だから三色、菫か。

 自分には知らないことが多くあるのだな、と男は思う。道端や民家の庭に咲く花の名を、男はひとつも答えられない。咲く花、繁る木々を見てああ、花だ。だとか木だ。と認識するのを、ただそれだけで知った気でいたのだ。その奥に在るもの――それこそ名前や色、姿形などがあるということすら、考えずに。

「――それで、もし良ければ、あなたにも手伝っていただきたいのですが」

 思索にかまけていた男の耳に、その言葉は突然、飛び込んできた。

「手伝い?」

 自分でも笑ってしまいそうになるくらい、間延びした声で男は聞き返す。

「ええ。もしお時間があれば、ですが。この歳になると流石に、ひとりですべて行うには骨が折れます。手伝ってくれる方を探していたんですよ」

 男は働いたことがない。ただ、泳ぐのをやめたら死んでしまう魚のように、毎日あてどなく街をうろついていただけだ。そんな自分に、彼の仕事の手伝いが可能だろうか? 男はどう返事をしたらいいかわからず、呆然と管理人を見た。

 帽子を脱いだ彼の頭髪は白に近いグレーで、室内で少し暗いせいもあるだろうか、屋外で見た時より老けこんで見える。目尻には深い笑い皺が何本も刻まれ、髪と同じ灰色の瞳が男をまっすぐに見つめていた。

「ああ、それならば……」

 どうしたことだろう。口が勝手に動く。俺は何を言おうとしているのか。思考が乖離して、冷静に、今までと同じ日常を辿ろうとする自分と、違う道を往こうとしている自分がいる。今立っているのは二叉路――でも、選べない。自分は、彼の頼みを、

「いいでしょう。お役に立てるかは判りませんが」

 承諾してしまった。

「ありがとうございます。力仕事ですが、あなたなら大丈夫でしょう。では明日の朝から頼めますか?」

 管理人は目を細め、心からの笑顔を浮かべた。

 こうなってしまったならもう、仕方がない。男ははい、とだけ答え、紅茶を口にする。

 茶はもう冷めきっていた。動揺している彼に味はわからず、ただ冷たい液体が食道を流れ胃に届く感覚がするばかりだ。

 その後、しばらくまた話を続け、きりのいいところで男は席を立った。

「長くお引止めしてしまってすみません。また明日、よろしくお願いします」

 管理人はおそらく、男より二十は年上だろう。しかし庭園――いや、墓地という方が正しいのだろうが――の入り口まで男を見送ってくれた。

 家の外はただただ広い芝生とそれを縁取るビオラペチュニア、まばらに立つ木があるだけで、同じような景色が続く。今いる場所が上手く把握できない。ただ単純に、足元に植えられた花をなぞって歩けばいいだけだが、延々と途切れなく続き、いつまでも門に辿り着けないような感覚になる。管理人がいなかったら、ここからもう出ることがかなわないような、そんな。

 気付けば日が暮れようとしている。ふたりの足音が暮れ方の空に吸い込まれていく。鳥の声ひとつせず、風すら吹かず、植物たちはじっと、静物画のようにそこにある。

 家の中では饒舌だった管理人も、門のところまではずっと無言だった。もともと話すことに意味を見出さない男もまた、同様に無言で長い帰り道を行く。

 ニ十分ほどで、ふたりは庭園の出入り口に到着した。一ヵ所しかないらしいその門の脇で管理人は小さく会釈をし、すぐにくるりと後ろを向いて立ち去って行った。

 今までの社交性は何だったのだろう? 人が変わってしまったようで、騙されたようで、何とも言えない気持ちになりながら、男もまた軽く頭を軽く下げてその場を後にする。

 太陽は沈み、その残光を空に投げている。建物の隙間、オレンジから濃紺に染まるグラデーションが天頂に向け、放射状に広がるのが見えて綺麗だ。

 家へ向かいながら男は逡巡する。庭園を整える仕事とは一体どんなものだろう? 花を掘り出して、新しい花を植える。伸びすぎた樹木の枝を剪定鋏で切り落とし、芝生の長さが均一になるよう、草刈り機を動かす。

 頭の中では思い浮かぶが、それを自分が行う、となると上手くイメージが出来ない。適した服は……デニムに、シャツ? 上着がないと寒いだろうが、生憎と、男は泥だらけになってもいいようなジャケットは持っていなかった。

 体を動かしているうちに暑くなって気にならなくなるかもしれない。そういえばあの管理人も、白いシャツ一枚だった。それに麦藁帽と長靴。まるで真夏の農作業中みたいな格好だ。

 同じような服を着て花を摘み、植える自分の姿をもう一度イメージし直してみる。燦燦と照る陽射し、明るく瑞々しい緑の芝生。その縁をなぞる様に咲く花々を壊れ物のようにそっと土から引き抜き、新しい花をまたそこへ埋める。言葉にするのは簡単だが、自分のこととは思えない。どこか他人事のよう、ただ漫然と、映画の画面を眺めているみたいだ。

 考えるだけ無駄、とにかくやってみないことには仕方ないだろうと男はひとりごちた。

 いつも通り盛り場へ繰り出して酒を飲むつもりだったが、なんとなく興が乗らない。男は角を曲がり、まっすぐに家へと向かう。

 経験したことのない出来事が多すぎた。そして今頃、自分が何時に庭園へ行けばいいのかを聞き忘れたことに気が付いた。

 明日、きちんと起きられるだろうか?

 不眠症でどれほど遅い時間に眠っても、深酒をしても数時間で覚醒してしまうので大丈夫だろうと思うけれど、万が一のこともある。目覚まし時計が必要だろうか? しかしもう家へ向かう道すがら、この先に店はなく、手に入れる術はない。戻るのも億劫だ。

 決まった時間に決まった場所へ行く――例えば学校など――というのは、男にはほぼ経験がない。いや、あるはずだが、記憶に留まっていない。

 気付けばこうして、一日中を持て余す自分だった。まるで何かの役を羽織るかのように何の疑問も持たずに目覚め、街を徘徊し、酒場で酒を飲んで眠る。それだけが彼のもつアイデンティティであり、人生だった。

 それが今、変わろうとしている。何かが動き出している。

 男は歩きながら煙草を取り出し、ライターで火を点けた。吐く息よりも白い煙が、男の口から吐き出される。

 陽が沈んで、一気に気温が下がった。風が冷たい。

 ああ、何処へ行こう――。

 決まり切っているのに、何故かそんな言葉が男の口から零れ落ちていた。

 

 雲ひとつない青空を見て、「今日は死ぬのにもってこいの日だ」と言ったのは誰だっただろう。凍り付いた氷河、あるいは透明度の高い水晶のような空が広がっている。

 男はぼろぼろに着古して捨てようと思っていたデニムを引っ張り出し、白いシャツ、深いグリーンのベストを着て庭園を訪れた。

 時間がわからなかったが、早い分には問題ないだろうと早朝に家を出た。腕時計の文字盤は七時半を刻もうとしていた。

 どこへ行けばいいかわからないので、とりあえず管理人の家を目指して歩く。確か、芝生の縁をなぞって行けば辿り着けるはずだ。昨日は気が付かなかったが、よく見れば一応、人が歩くための道として砂利が敷いてあり、その上を歩けば迷うことはなさそうだ。

 何故あの時、ひとりでは庭園の外へ出られないと、永遠にこの中を彷徨うことになりそうだと思ってしまったのだろう。逢魔が時。魔が差したのかもしれない。

 十分ほど歩いたところで、管理人の姿を見つけた。しゃがみこみ、花を丁寧に掘り出している。

「おはようございます」

 声を掛けると、管理人は顔を上げて穏やかな笑顔を男に向けた。

「おはようございます。朝早くから、ありがとうございます」

 管理人の傍らには抜かれたビオラが無造作に積み上げられ、その脇にまたビオラの詰まったバケツ、明るいピンクと白色の花を咲かせた鉢植が置かれていた。

「これは?」

 ビオラを見て、男は問う。

 花の縁が少し萎れているが、まだまだ綺麗だ。植え替える必要など感じさせない。

「三色菫と、新しく植える芝桜です」

 しかし管理人に、男の質問の意図は伝わらなかったようだ。

「いや、まだ枯れていないのに、もう?」

 男はもう一度、管理人に問い直した。すると彼は不思議そうな顔をした後、真顔になった。

「花は美しいうちに摘んで、芝生に撒きます。ここに眠る死者と枯れゆく花への弔いです。季節はどうしても移ろい、それと一緒に花も時季が終わってしまう。醜く枯れてしまう。その姿を晒し続けることの方が、私は残酷なことに思えます」

 花は何のために花として生まれてきたのか? それは、美しく在るためだ。ならば最も美しい姿で摘み取ってしまうことこそが、花にとっての幸せな最期なのではないか……そのようなことを言いながら、管理人は優しく、バケツの中のビオラを撫でる。

 限界まで生を全うすることが、必ずしも正しいわけではない、ということだろうか。であれば、男にも理解が出来た。むしろ共感してしまうくらいに。

「ここからぐるりと一周するように三色菫を抜いていってもらえますか。私は新しい花を植えていきますから」

 何事もなかったかのようにまた穏やかな表情に戻った管理人は、小さなシャベルと軍手を手渡した。

「それでは、よろしくお願いします」

 そしてそれだけを言って、くるりと男に背を向けた。

 ――気分を害していなければいいのだが、男にはわからない。大した疑問ではなかったと思うのだが、突然、真顔になった管理人に戸惑ってしまう。他者と接するのは難しく、その割に得られるものが少ない。

 今更ながら男は、管理人の申し出を受諾してしまったことを後悔した。

 退屈でもいい、こんな気まずい感情を覚えるなら、ただ身勝手に街を徘徊している方がよほど楽だ。しかし一旦引き受けた以上、逃げるわけにもいかない。

 男は軍手を嵌め、シャベルを持って言われた通り、ビオラを選って掘り返していった。

 ビオラといえば白、紫、黄色の三色のイメージしかなかったが、よく見ると庭園にはピンクやオレンジ、青色など様々な色の花が咲いていた。形が一緒だから男にも判別がついたが、そうでなければ同じ種類の花だと判らなかったかもしれない。

 柔らかな光がふんだんに降り注ぐ、気持ちのいい日だった。少しずつ日照時間が伸び、ゆっくりと降りていく太陽の陽射しが暖かい。

 先日植えたというペチュニアはまだ緑の葉を茂らせるばかりだが、その色彩のアクセントが目に心地よく、男は黙々と、いつの間にか時間も忘れて作業に没頭していた。

 ふと顔を上げると、管理人がいた。一体、いつからここにいたのだろう? まったく気が付かなかった。

「どうかしましたか」

 男は慌てて立ち上がった。

「お昼をご用意したので、届けに来たんですよ」

 管理人はいつもと同じ、穏やかな笑顔をしている。

 奇妙な既視感を覚えた。二十四時間前も、そのまたさらに二十四時間前も、自分はここでこうしていたような。昨日、一昨日、明日、明後日もずっと同じことをして、それはまるで時空の中に閉じ込められたようで――。

 逆光が眩しくて、男は一瞬、目を閉じた。太陽を背に、管理人が立っている。

「ありがとうございます」

 男は素直に礼を言った。

「お口に合うといいのですが」

 管理人はオレンジのマドラスチェック柄の包みを差し出し、

「私は家で食べます。あなたも、どうかお好きなところで召し上がってください。また一時間に再開していただければ結構です」

 それだけを言って、帽子をちょこっと持ち上げ頭を下げると、立ち去って行った。

 彼の背中を見送りながら、男は受け取った包みを開く。中には、ライ麦パンで作られたサンドイッチが入っていた。中の具はポテトサラダ、ハム・トマト・レタス、卵の三種類。

 作りたてらしきそれは男の手の中で、小動物のような温い温度を持っている。パンはトーストされているのか、こんがりと香ばしい香りがした。

 不思議。不思議だ。何もかもが不思議だ。

 男は混乱していた。さっき、時空に閉じ込められたような気がしたから? 管理人の背後にあった太陽が眩しすぎたから? 手の中のサンドイッチがあたたかいから? どれもそうであるだろうし、そうじゃない気もする。わからない。男には本当に、何もかもがわからない。

 腕時計を見ると、昼の一時だった。今から一時間は好きに過ごしていいらしい。まずはこれを食べる場所を見つけよう。

 困った時はまず、目の前にあるもの、最初に手を伸ばして届く物事から片付けるのが正解だ。

男は辺りを見回し、腰を下ろすのに丁度よくしっかりと、太く根差している木を探した。出来ればよく陽の当たる場所が望ましい。

幸い、庭園内には樹齢の長そうな立派な木が多かったため、男はそう時間をかけずに理想に近い木を見つけることができた。その根元に座ってサンドイッチを食べ、余った時間は読書すればいい。

 男は現実世界には興味を抱けなかったが、空想の世界はとても好きだった。殊に本が好ましく、書物ならファンタジーでも、SFでも、戦記・伝記でも、哲学書でもなんでもいい。ただ、その一冊に閉じ込められた著者の頭の中にしかない宇宙を覗き見ている感覚が楽しくて堪らない。誰に感情移入するでもなく、ただ俯瞰し、ありのままその世界を眺める。何故、彼・彼女(ら)はそういった行動に出るのか、結末に至るのか、小さな箱庭の中をつぶさに観察する。たとえ、誰一人として共感し得る人物、状況がもたらされなくとも。

 片手にサンドイッチを持ち、男は鞄の中から読みかけの本を取り出した。

 二十年ほど前に書かれたもので、作中において『物語』――つまり劇中劇なのだが――が徐々に機能を失い死んでいく。それにまつわる様々な人や事物が大きく揺り動かされ、世界の輪郭が消えていく様子を描いた、ディストピア小説だ。

 物語を語る「語り手」と物語を綴る「書き手」が、徐々に見えなくなった目で探り探り歩くようにして、二人の思い出の『物語』について語り合いながらストーリーは続いていくのだが、『物語』という概念そのものが死滅していく中、ふたりが確かにあるのにそれを表す言葉が見つからず戸惑いながら、苦しみながら、なんとかしてその形を、爪痕を、自分の中へ残そうとする様が美しく、何とも言えない歪な安寧感を醸し出している。

 男はうっとりと目を閉じ、小説の一言一句を反芻してみせる。現実は彼の心を動かさないが、現実に存在する誰かの物語という架空は心を震わせてくれる。物語はあくまでも現実の似姿で、限りなく同じに近い何かだからだろうか。本物より紛い物の方が美しく輝くこともあるのだ。きっと。

 気付けば片手に持っていたサンドイッチも無くなり、時計はあっという間に二時を指し示そうとしていた。

 まだ、頭が小説の中から切り替えきれずにぼうっとする。

 誰が見ているわけでもないのだからもう少しゆっくりしても良いような気もしたけれど、気が引けて、男は作業へ戻るために立ち上がった。

 今いる場所から作業していた場所を眺めると、淡かったり濃かったりする芝桜の花のピンク色が、芝生の外縁に沿って伸びているのが見える。その途上には摘まれたビオラの屍骸があると思うと、まるで葬列のようだ。

 葬列……ああ、そうか。ここはそういえば、墓地であったのだ。

 男は幾ばくかの時間、その景色をぼうっと眺めていた。

 同じ景色だというのに、庭園だと思って見るのと、墓地だと思って見るのではこんなに心持ちが変わるものなのだろうか。

 自分にとってここは庭園に近いが、管理人にとってはやはり墓地としての在り方が大きいのか。果たしてどうなのだろう。

 他人のことを気にかけるなんて、一体自分はどうしてしまったのか。管理人から与えられた影響はそんなにも大きかったのか。まだ、知り合ってから一日しか経っていないのに? 自分は、彼は、互いのことを何も――そう、名前さえ知らない。

 男は知らない。ここに誰が眠っているのかさえ――。

くしゃくしゃくしゃ、という音。(駄目だ、これはもうおしまい)

 

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