美しい血肉

日々のことが美しくないなんて嘘だ。

春待ち

 今日は二月四日。春が始まる日。

 陽が随分と伸びた。遠くからオレンジ色の光が放射状に広がって、街並を舐めるように染め上げている。まだ風は冷たく鋭く、コートの襟を掻き寄せずにはいられない寒さが続くけれど、暦が変わっただけでほっと一息つけるのは何故なんだろう。

 夕飯の買い物客でごった返している商店街を、肉や魚をうっかり、或いは思わず買わないで済むように気をつけながら通り抜け、まだ帰りたくないと愚図る子供が遊ぶ公園のある角を曲がるとすぐそこが俺の家だ。
 野ざらしなのになんとなく埃が厚く積もっているように見える錆びた鉄の階段を、カンカンカンと上っていく。鍵を開けて立て付けの悪いドアを開くと、部屋の中は夕陽の色に満たされていた。

 築四十年と言っただろうか。外壁はひび割れ、いつ建て直すといわれてもおかしくない風情のアパートだが、俺の部屋には真西に大きな窓が一枚あって、しかもその方向には建物がひとつもないために夕陽を独占できる。それだけがこのアパートに住むことに決め、以来引っ越すこともない唯一の理由だ。

「……ん。朔ちゃん?」

 不意に、足元から声がした。

「なんだ、花、来てたのか」

 視線を落とすと、寝惚け眼の恋人が横になって俺を見上げている。

「うん…、今日の夕陽は綺麗だろうなあって思って。でも寝ちゃった」
 真っ黒な髪が畳の上で扇のように広がり、三日月形に細められた黒目がちな目には橙色のフィルターがかかっていて、なんとなく物憂げに見える。

「それにしたって遅いよ、朔ちゃん」
「田中のヤツが遅刻して上がれなかったんだ。親父さんが倒れたらしい。しょうがないだろう」

 脱いだ上着を適当に放り投げて、ごろごろと寝転がる花の脇に座り込む。

「んー。じゃあ、しょうがないねえ」

 花も起き上がって、俺の肩にもたれかかってくる。

「なんか、香水つけた?いいにおいがする」
「いや、なんもつけてないよ」

 漂ってくる、あまい香り。痩せていても、不思議とやわらかい身体。夕陽の色に素直に染め上げられた白い肌の首筋にそっと指で触れてみた。
 頭ひとつぶん低いところにある彼女の顔は何一つ疑うことなく安心しきっていて、耳たぶの長さに切り揃えられた毛先が落とす影の濃さが目に強く映る。

「……そうか」

 強い風が、外で吹いている。がたがたと窓枠を揺らす音が、強すぎる風が、ノイズのように俺の心をかき乱しに来る。

 不意に、とても、とても残虐な願望が頭をもたげてきた。のしかかって俺の影にうずめてしまえば誰にも知られずに彼女を壊せるような、俺の影の中でだったら、花を踏みにじってもいいような、そんな。

「朔ちゃん?重いよぅ……」

 首筋から滑らせるように肩へ降ろした手で掴んだ肩は、その中にすっぽりと埋まってしまうほどに細い。簡単に砕けてしまいそうだ。
 俺は花をゆっくりと押し倒して、上からもう一度、彼女を見下ろしてみた。

「花」

 春なのに、部屋の中はひどく寒い。手がバカみたいに熱くて、なんとなく不快だ。俺はそのまま、しばらく彼女のことを眺めていた。踏ん切りがなんとなくつかないようで、今すぐに行なってしまうのは惜しいようで。くすぶる衝動を転がしながら、俺はしばらくそのままでいた。
 花は花で、何かを感じ取ったのだろうか。ぎゅうっと、固く目を閉じて、やはり同じようにじっとしている。

 ――そうしてそのまま、ゆっくりと青紫に沈んでいく部屋。

 ふと窓の外に目を遣ると、白い月が中空にぽっかりと浮かんでいた。どのくらい長い間そうしていたのか。気付けば、彼女はささやかな寝息を立てて寝入ってしまっていた。
 こんな状況で寝てしまえるなんて、一体どういう神経をしているんだろう。思わず苦笑してしまったけれど、ふと視線を外すと薄暗がりの中に投げ出された白い足首がほのかに発光しているように見えて、それはなんだかこの世のものじゃないみたいで、俺はごくりと息を飲んだ。

 ――まだ。まだ、ダメ、だ。

 冷え切ったかかとを、そっと掌で包む。きれいに、きれいに、凍らせた薔薇を、手の中でまるめて粉々にするように。

 いずれ、俺は彼女を正しいやりかたで壊し、咀嚼し、飲み込んでしまうだろう。それはきっととてもすてきなことだけれど、一瞬で終わってしまう刹那い出来事。それまではもうちょっと、今のままのもどかしい距離を揺れていたい。

「ねぇ、はな」

 気付けばもう空は真っ暗に更けていて、地平線のオレンジがほんの僅かに境界線を誇示するように光っていた。

 俺の春は、まだ、もう少し、先。