美しい血肉

日々のことが美しくないなんて嘘だ。

【試し読み】×チル。

 何年経っても、ねえ、私のみかたでいてくれる?

 

 

 午後十時二十一分。滅多に鳴らないスマートフォンが、ポロン、と、声を上げた。

 

『明日、十九時に、雪緒の働いてた喫茶店で。』

 

 たったそれだけの文章がロック画面の上に浮かんでいる。画面を開くまでもない。きっと、これ以上の言葉はないだろう。

 十五年ぶりの連絡だというのに随分と素っ気無い。相変わらず変わっていないなあと苦笑する。

 僕はスマートフォンを手に取り、了解、とだけ返した。送信完了になったのを確認してから、それをまたテーブルの上に戻す。

 遠い日のふたり。連綿と続く明日を信じられなかったふたり。僕はとっくに大人になって、信じようが信じまいが明日が来ることを知ってしまったけれど……君はまだ、そこに取り残されているのかい?

 悲しいような、嬉しいような、不思議な気持ちだった。

 どうして、というべきか。どうしよう、というべきか。明日のことを一瞬考えるけれど、考えるまでもない。

 なぜなら僕はあの日、約束をしたのだ。メールの主である透子と。

 

 

 透子は高校の同級生だった。

 その名前の通りに透きとおった白い肌、日光の下では薄茶色に透ける黒髪。誰もが憧れる端正な顔立ちの美少女で、バレー部の部長もやっていたし、生徒会の副会長でもあった。とにかく目立つ存在だったのだ。

 一方の僕はというと、中肉中背、これといって特徴のない学生で、どちらかといえば透子に一方的に憧れるだけの人間だった。

 今思い返しても不思議でならない。どうして僕ら、こんなに親密になれたのだろう、と。

 きっかけは透子が僕のバイト先へ客としてやって来たことだった。

 その喫茶店は叔母が経営している店で、昼は軽喫茶、夜はスナック、という業態のところだった。僕は帰宅部で暇だったので、よく駆り出されていたのだ。十八になって車の免許を取ってからは、夜に働く女の子たちを家まで送り届けることもあった。

 その日もまた、いつも通りの営業だった。

 昼休憩をとりに来る人、暇つぶしに来る人、怪しげな勧誘をしている団体客……そんな人々でそれなりに賑わっていた午後、カラン、というドアチャイムの音がした。

 ちょうど出来上がったナポリタンを客席へ給仕しながら入口へ目を遣った瞬間、僕は息が止まるかと思った。

 いるはずのない、来るはずのない――何せこの店は学校の最寄り駅から四つも離れていたし、急行も止まらないから、同級生が来る可能性なんてほとんどなかったのだ――憧れの人、透子がそこに立っていたからだ。

 今思えばだからこそ、透子はあの店を選んだのだろう。自分を知る人が誰もいない場所を探していたのだ。

 けれど、僕がいた。幸いだったのは、僕が誰の目にも止まらないような平凡な人間で、同じクラスになったこともなかったから、彼女が僕の存在を認識していなかったことだ。

 透子は伏し目がちに、おどおどした様子で店の入り口に佇んでいた。

「いらっしゃいませ。空いてるお席へどうぞ」

 驚きのあまり僕は声が出なかったが、厨房からすかさず叔母が出てきて彼女を客席へ促してくれた。

 透子はその声を聞くと少しほっとした表情を浮かべてあたりをきょろきょろと見渡し、店の一番奥の席へと向かった。

 もっと明るい窓際の席も空いていたというのに、彼女は店内に漂う煙草の煙でいくらか煤(すす)けて見えるその席をまっすぐに選んだ。きっと、そういう人目につかぬ隠れ家的な場所が必要で、そこでやっと、一番深い息を吸えたのだろう。

 席に着くと彼女はアメリカンを頼み、鞄の中から取り出した文庫本を読み始めた。そのとき、ちらりと見えた本のタイトルを僕は見逃さなかった。

 きっと知らず知らずのうちに僕は透子のことばかり盗み見てしまっていたのだろう。あの時、見てはいけないものを見ているような気がして、出来る限りそちらへ視線を遣らないよう気を付けていたというのに。

 本のタイトルは、「死についての文学」というタイトルだった。明治、大正、昭和時代の作家の遺作ばかりを集めた短編集で、僕も読んだことのある本だった。

 思春期にありがちなことだが、僕はその当時、「死」という現象に強く興味を奪われていて、それについての書籍を読み漁っていたのだ。

 日本では「死」は強く嫌忌される。死体の写真も動画もすべてモザイクが入るか規制によって放映されず、道端で死んでいる小動物も数時間後には何処かへ持ち去られ処理されてしまう。

日本で生きている限り、死は日常から遠く隔離されている。事件や事故で人が死んだことが報道されても、現場の血痕ひとつ映されない。伝えられない。身内や友人が死んだときだけ、死はそっと近づいて、その冷たい手で僕らの世界の頬を撫でる。

そんなクリーンすぎる世界への微かな違和感が、僕を逆に死に引き寄せた。触れてはいけないからこそ、知ってはいけないからこそ、知りたかった。見てみたかった。人が、生き物が、死ぬ瞬間。それからの経緯。その顛末。

 僕はバイト代を少しずつ貯めて、いつかインドへ行こうと思っていた。日常的に道端に死体が転がり大いなるガンジス川に流されているという、当時の僕にとって死と人々の当たり前の営みが雑多に溶け込んでいる世界がどんなものなのかを肌で感じるために。

 だから透子が読んでいた本のタイトルは、鞄から出したほんの一瞬しか見えなかったというのに、僕の心に強く焼き付いた。もしかしたら同じ感情を共有できるかもしれないとさえ思った。

 実際、その予感は半分外れて半分当たったのだが――透子が僕の存在をきちんと認識するまでには、ここからまだもう少しのタイムラグがある。

 重い灰色の空が覆いかぶさってくるような曇天の寒い日だった。

 僕はその日、注文していた本が入荷したと聞いて電車を乗り継ぎ、隣町の本屋まで出かけていた。

 手袋をした手だけが妙な熱を持っていて、冷たい風に吹き晒された頬は冷え切っている。二月ももう終わるはずなのに、春の気配はどこにもなかった。

 透子が店に来るようになって半年ほどが経つが、彼女は週に一度か二度の頻度でやって来ていた。いつも変わらず声をかけられるまで入口に立ち、初めて来た時に座った一番奥の席が彼女の定位置となっていた。

 僕も何度か案内したり給仕をしたことがあったけれど、彼女は一向に、僕が同じ学校の生徒とは気付かないようだった。

 それが少し残念であったし悔しいような気持ちもしたけれど、彼女の「聖域」を守れるのならその方がいいとも思っていた。

 憧れが恋になる、それも普段は誰にも見せない姿を見せられているならそれは当然の帰結だろう。しかし実際のところ、僕は透子に恋はしなかった。

 大事な宝物を愛でるような、掌の上で小さくも儚く、暖かい生き物を慈しむような、そういった言葉の方がしっくりとくる。

 だから知られる必要はない。声をかけることもない。しかしいつか、同じ視点を持っているかもしれない彼女と話してみたいと思ってはいたから、僕は一方的に、彼女との距離感を縮める機会を窺(うかが)い続けていた。

 目的の本屋は、この辺りでは一番大きな繁華街のある駅から歩いて五分ほどのところに建っていた。

 今はもう無くなってしまったが、当時、流行り物でなかったり、少々マニアックな本を手に入れるためにはここへ行く以外、手に入れることができなかった。

 注文してあった本というのは、戦場カメラマンが数年前に自分の個展で図録として出した、屍体写真ばかりを集めた写真集だ。それが何故か、急に一般の写真集として再販されたというので予約をしたのだ。

 当時普及し始めていたインターネットで購入することも出来たが、クレジットカードなんて当然持ってはいないし、履歴に残る。

 何を言われるわけでもないと思いつつも、なんとなく僕はこの好奇心の存在を家族には知られたくなかった。

 僕にとっての大人になるために必要な通過儀礼としての死への興味を、保護者に観察されながら行うなんて、考えるだけでぞっとしない。

 本屋の前に立つと自動ドアが勝手に開いて、「いらっしゃいませー」という、店員の乾いた声が聞こえてきた。

 本屋独特の新しい紙と古い紙、インキの入り混じった匂いが僕を安らがせる。

 まっすぐレジへ行き、予約していた本を受け取ろうとした。そのとき、とん、と、誰かが肩にぶつかってきた。

「あ、ごめ……」

 反射的に振り返ると、そこにはよく知った顔をした少女がいた。

「……んなさい」

 大きな目を更に大きくして、少女……透子は僕を見つめていた。

 きっと顔を覚えてくれてはいたのだろう。しかしその時、僕らは高校の制服を着ていた。僕が同じ学校の生徒であり、しかも学年まで同じである――僕らのいた高校は学年によって男子はネクタイ、女子はリボンの色が違っていた――ということに彼女も気付かないはずはない。

 さり気なく目を逸らし立ち去ろうとする透子の腕を、僕は強く掴んでいた。

「待って」

 怯えたような表情で、透子は僕を見た。初めて至近距離で彼女の顔を見たのがその時で、ああ、髪と同じで瞳の色も薄く綺麗だなあと思ったことをよく覚えている。

「あの、どうして」

「僕も同じ本を買いに来たんだ。……よかったら少し、話をしないかい?」

 彼女が胸に抱えていた袋からは、うっすらと中に入っている本の表紙が透けて見えた。それは僕が買いに来た本と全く同じタイトルで、僕はああ、もうこれは運命だと、半ば思ってしまったのだ。

「え、おな……?」

 状況をまだ把握しきれていない透子をその場に置き去りにして、僕はすぐにレジへ向かい支払いをして本を受け取った。そして彼女の腕を今度はそっと掴むと、本屋の外へと連れて行った。

「びっくりしたよね。驚かせてごめん」

 僕は彼女をこれ以上怯えさせないよう、小さく静かな声でゆっくりと喋った。

二の句も継げず、彼女はそこに立ち尽くしている。

 校内での透子は、いつもふんわりと光を纏っているようだった。眩しいほどではない、でも自然と視線を投げてしまう。何かあれば話しかけたいと思ってしまう。そしてそれに対して相手の顔色を窺っているというわけでもないだろうに、透子は常にその希望を真摯に受け止め、巧みに相手の願望を叶えてしまうようなところがあった。

 しかし今目の前にいる透子に、その輝きはない。

 長い髪を後ろで束ね、黒いダッフルコートにデニム。化粧っ気のない顔は青白く、冴えない。別人のようだ、とは言わないが、あの時の透子はふわふわと頼りない、寄る辺のない青褪めた影を引きずっているように弱々しく見えた。この僕が、咄嗟の出来事とはいえあんな風に強気に出られたのも、そのせいかもしれない。

 無神経なのは自覚していた。でも、それ以上に僕は、僕の知的好奇心について共有できるであろう透子を捕まえられたことにかなり興奮していたのだ。

「君が店でいつも読んでる本は、僕も読んでた。だから一度、ゆっくり話がしてみたかったんだ」

 本屋のある通りを抜け、裏路地を進みながら、僕は透子に語りかけた。何も言わず、彼女も後をついて来る。あまり人気のない静かな喫茶店があって、そこでゆっくり話をしたいと考えていた。

 店へ向かう道の途中、最後の曲がり角で僕は立ち止り、向き直った。

「迷惑なら、ここで別れよう。もちろん、君が知られたくないだろうことは誰にも言わない。約束するよ」

 ちらちらと風に揺れる水面のような瞳をして透子は押し黙っていた。本屋の袋がくしゃくしゃになるくらい抱える腕に力を込めて、彼女は迷っていた。

 後に、僕はこの時のことを彼女からこってり怒られることになるわけだが、しかしそれを差し引いても魅力的な誘いだったとも言われた。

 そう、彼女はここで僕の誘いにイエス、と言ったのだ。

 こうして僕たちは秘密を共有することとなった。それは僕が想像していたものから遥かにかけ離れていたものだったけれど……でも、よかったのだと思う。

 ほんの僅かな時間、星の瞬きのようなものに過ぎなかったのだとしても、僕は透子に寄り添い、救いになれていたのだろうから。

 

 

 当時、僕たちは高校三年生になろうとしていた。

 期末試験も試験休みも終わり、後は消化試合のようにして次の学年までの日々を学校で過ごすだけ。

 校内では互いに知らんぷりをしていた。僕が働く喫茶店でも、今までどおりを貫いた。互いのことを下の名前で呼び合うまでに大した時間はかからなかったが、自分たちの秘密の趣味を守るために、この間柄は誰にも知られぬようにしたいというのが、透子の希望だったのだ。

 僕たちは週に二、三回、本屋のある駅にある喫茶店や彼女の部屋で、死についての思いや知識を披露しあった。

 彼女の両親は多忙なようで家にはいつも誰もいなかった。弟がいたが、本家の跡を継がせるため養子に出されたらしい。交流はほぼ無い、とのことだった。

 彼女の家が名だたる旧家であることはそのときに知った。

「古い家だからね、血が濃すぎるのかな。頭のおかしい人間がよく生まれるのよ」

 紅茶を飲みながら、透子はよく、自嘲気味にそんな話をした。当時の僕は「頭のおかしい人間」という意味をよくわからないで頷いていた。

「私も、その血統を正しく受け継いでしまったのかもしれない。だからこんなに『死』について知りたいと思ってしまうんじゃないかとよく思うの」

 首をちょこりと横に傾け、しばらくの間、考え込むように遠い目をする。そしてぽろりと零すように、透子は簡単な身の上話をした。後にも先にも、そんな話をしたのはこの時が最初で最後だったと思う。

 死、という概念を知ったのは、彼女が十歳の頃、叔父が自殺をした時だと言っていた。

「現場は見ていないのよ。死に顔も……首吊りだったみたいなんだけど、納棺してくれた人やお医者様が綺麗に整えてくれて。ちっとも怖くなかった。ただ悲しくて、私、周りの大人たちの数を数えてしまったの」

 父、母、祖母、祖父。母方の祖父は戦争で、祖母は癌で透子が生まれる前に亡くなっていた。あとは叔母が一人、他の親戚縁者たち。

「こんな悲しい思いを、この人数分味わわなくてはならないって思ったとき、気が狂ってしまいそうになった」

 それを克服したくて、透子は死んだ叔父の日記を読み、図書館や本屋へ通いつめ、死について学び続けたという。忍び寄る黒い影を、いつか必ず来るであろう恐ろしい未来の気配を振り切るようにして。

「雪緒は、家族に亡くなられた方はいるの?」

 僕は首を横に振った。

 父はサラリーマン、母は専業主婦。どちら方の祖父母も、何かしら病気を患っているとはいえ、今すぐ死ぬような状況ではない。

「……だから知りたいのね、死がどんなものか」

 わからないからこそ、知り得ないからこそ、それに興味を惹かれてしまった僕は、透子からすれば滑稽で莫迦(ばか)な男だっただろう。けれどそのことを、彼女はけして否定しなかった。入口はどうであれ、目的は何であれ、二人の間には仮想の、あるいは現実の死が同じ顔をして重苦しく繋がれていたのだから。

「私はどうなのかなぁ。私も、雪緒と一緒にインドへ行ってみたら吹っ切れてしまうかもしれないね」

 透子の部屋の本棚には参考書や近現代文学の背表紙が並んでいた。きっとそもそもが読書家なのだ。

 透子の本当の蔵書は、その後ろに隠されていた。

 背の高い風景写真集の裏に、この間一緒に買った写真集が。ハードカバーの裏に学術書が。新書の裏に文庫本が。几帳面な彼女の性格通りに本は綺麗に並べてあり、しかしどれをとっても、彼女の虞(おそれ)を失墜させるには至らなかったのだろう。

「どうかな。本物を見ても、透子は変わらないと思うよ」

 無知が故の、ゆきすぎた興味本位で死を眺めている僕と彼女は違う。彼女は生身の死を最も多感な時期に、最悪の手段で受け入れてしまっている。

 僕は透子と向き合っているとき、ときどき、自分を殺しに来た死神と対面しているような気持ちになることがあった。

 彼女の死への興味はもう、その範囲を逸脱している。このままゆけば、いつか――そんな妄想が頭をかすめた。しかしそれは決して悪いものではなく、実のところ恍惚とした夢想と言い換えてもよかった。

 彼女のあの美しい顔立ちが、この世のものではなさそうな色素の薄さが、目の前にある現実からリアリティを剥ぎ取っていたのかもしれない。

「……ナイフのベクトルって知ってる?」

 僕は再び、首を横に振った。

 透子はそれをみて、ただ黙って微笑むばかりだ。

 

 

 気づけば時計は午前零時を指そうとしていた。

 明日は朝一から打ち合わせがある。遅刻する訳にはいかない。

 念のため、透子からまた連絡が来ていないかを確かめるためにスマートフォンをチェックしたが、何もなかった。

 明日の目覚ましをセットしてから、歯を磨くため立ち上がる。

 

『明日、十九時に、雪緒の働いてた喫茶店で。』

 メールの文面がふっと、彼女のあの、芯のあるやわらかなメゾソプラノの声で蘇った。