美しい血肉

日々のことが美しくないなんて嘘だ。

夜の少年

雨が上がった後の夏の夜の空気はとても重い。てのひらを泳がせると、纏わりついてくる。ぴたりと張り付いて皮膚の上でもぞもぞと蠢くのを、手でぺりっと引き剝がす。カットバンを取った時みたいな感触。夜は生き物だ。

あまりたくさんの夜をそうやって張り付けるとやがて全身を呑まれて帰れなくなるから、こんな風に闇の濃い夏の夜に出歩いてはいけないと、よく、ばあちゃんが言っていた。

「おい、もうそろそろ行くぞ」

「まって。まだもうちょっと」

 だけど僕たちはそんなの構わなかった。

 夜を体に纏ったままで坂道を自転車で駆け降りると、風圧で張り付いた夜が剥がれていく。その感触があまりにも気持ちよくて、しょっちゅう家を抜け出しては、そうやって遊んでいた。

 半袖から伸びた、日焼けして真っ黒になった腕にそれよりなお黒い、暗い夜闇がぴたりと這う。そのまま、もう何があっても動くまいと食い込んで、ぴりぴりとした痛みがあった。

 いつも一緒に来ているバンニの方を向き直ると、彼はもう首筋や顔まで夜に冒されていた。夜空の星みたいに二つの眼が光っている。

 ほんの少し、嫌な予感がした。彼は鈍くさいところがあって、いつもこうやってぎりぎりまで夜に侵されてしまう。それでも最終的には綺麗に剥がれ落ちて問題ないのだが、なんだか今日は胸騒ぎがして、心臓が痛いくらいに響いた。

「ほら、早く行けよ」

 本当に夜に呑まれちまうぞ、という言葉を飲み、バンニを急かして彼を先に行かせた。シャアっという自転車のタイヤがアスファルトをこする音がして、彼の背中があっという間に見えなくなる。僕も急いで彼の後を追った。

 いつも不思議に思うけれど、よく見知っているはずのこの道が夜になるとまるで知らない場所のように思える。どこまでも際限なく暗い暗闇の中で、街灯すらなく、僕たちは自転車のライトだけを道しるべにして駆け抜けていく。

 途中、毎年この季節になると咲く名前も知らない赤い花がぼうっと浮かび上がったかと思うと、後ろに流れ去っていく。昼間にはわからない草の匂いが濃く充満している。

 どこかでカエルの声。木の梢を揺らす夜鷹の気配。人ではない何者かだけが住む世界だ。そんな中へ無防備に足を踏み入れる僕たちを、今日こそ取り込んでやろうと夜が待ち構えている。こちらはこちらで、スピードと風を武器に突っ込んでいく。

 刷毛でなぞられるような、冷たく優しい手で静かに撫でられるような、名残惜しく別れを告げる、なにか絶対的で懐かしい存在の名残のような感触を味わうために。

ときたまそこに痛みが走る。いやだ、まだここからいなくなりたくないと駄々をこねる、いたいけで物悲しい、切ない感覚。

 その刹那的で儚い感触が、僕を現実の世界に繋ぎ止めている。闇の世界へ行ってはいけないと、お前は明るい日向の世界の生き物なんだと、何よりも強く確かな警告として、明日の朝には確かに太陽が昇って朝が来るんだと信じさせている。

 永遠に終わらないような夜もいつかは終わる。

あっという間に、僕たちは坂の下へ到着してしまった。時間にしてみればものの三分といったところだろう。

「ああ、今日も楽しかったな」

 先に到着しているはずのバンニに声を掛ける。が、返事が返って来なかった。

「バンニ?」

 見渡す限り誰もいない。光もない。新月の日を選んだから月明かりも、そしてどういうわけか星明かりの恵みさえもない。

「……バンニ?」

 僕はズボンのポケットから懐中電灯を取り出し、周囲を出鱈目に照らした。でも、バンニの姿が見当たらない。

 カエルの声も、まるで夜に吸い込まれてしまったかのように消え、僕の声だけが頼りなく宙にたゆたう。

 

 ――ネル、僕はここだよ。

 

 ささやかな星影のような声が聞こえて振り返るけれど、何もない。……いや、ある。最後の目の光がほんの僅か、空間に穴を開けたかのように光っている。

「バンニ!」

 今助けてやる、と僕は叫び、手を伸ばした。何かに触れる。生あたたかい粘液めいたものが、そこから僕の指先へ這い寄って来る。

 ぐっと掌を握って、それを掴み思い切り引っ張った。ぶちっと千切れるような音がしてバンニだった部分が露になるけれど、あっという間にまた夜闇に飲まれ見えなくなってしまう。

 今度は両手で水を掻き分けるようにそれを追い払ったけれど、結果は同じだった。

 

 ――駄目だよ、君まで夜になってしまう。

 

 また、ささやくようにバンニの声がした。

 でも諦められない。『やがて全身を夜に飲まれて帰れなくなるから、こんな風に闇の濃い夏の夜に出歩いてはいけない』と言ったばあちゃんの声が頭の中に蘇る。

 僕が夜を追い払う速度をあざ笑うようなスピードで闇はその手を伸ばし、僕のことまで染め上げていった。

「バンニ、バンニ!」

 生あたたかいそれは、暑い日の午後に入る海みたいに気持ちいい。指先から手首へ、手首から肘へ――気づけば足元からも闇が僕を呑み込もうとしていた。

 ああ、駄目だ。この心地よさに溺れてしまいたくなる。それを堪えるために必死で、何度も何度もバンニの名前を叫ぶけれど、確かに触れていた彼の身体の感触もいつしかあやふやになって消えて行ってしまう。

 バンニ! もう一度叫ぼうとして空いた口からも、夜が入り込んでくる。甘い、熟しすぎた果実みたいな、恍惚とした、夜が。

 右手から懐中電灯が落ちる。ことん、という音。ああ、それっきり音も光も無くなって、僕は、僕たちは、このまま、夜になってしまう――。

 突然、カッという光が瞬いた。

 まだ辛うじて残っていた視力が反応する。咄嗟に目を閉じると、瞼の裏で夜を追い払うように赤い色が滲んだ。

「何やっとるかお前!」

 眩しさの正体は車のヘッドライトだった。

 中から、二人のおじさんが降りて来るのが辛うじて見える。灯りっぱなしの光が、浄化するかのように僕の身体から夜を退けていく。

「バンニが、バンニが……!」

 僕はたまらず泣き出して、その場に崩れ落ちた。

「なんだ、もう一人おるんか?」

 落ち着き払った怒声に、多少の焦りが加わる。ああ、バンニはもう、本当に夜に呑まれてしまったんだろうか?

 でも今はそれどころじゃない。

 眩しい、眩しい、眩しい、眩しくて、眩しすぎて、目を開けていられない。

 僕は両手を目に当てた。触れたところが熱い気がする。いや、冷たいのだろうか? 感覚が消える。すうっと、さっきのバンニみたいに。

 二人分の大人の声が背後で聞こえたけれど、僕はもうそれどころじゃなかった。

 熱い。痛い。冷たい。気持ちいい。赤い。白い。暗い。暗い――。

 

 そうしてそれきり、僕は光を失ってしまった。僕は夜に呑まれなかったけれど、瞼の裏に夜を棲まわせてしまったのだ。

 バンニもまた、夜に呑まれたまま戻らなかった。でも、すぐ傍にいる。

 彼は世界中を満たす夜に溶け込んで、僕の瞼の裏にも溶け込んで、時々か細い声で僕を呼ぶ。

 

 ――ネル、ネル。僕はここにいるよ。君はいつ、こっちに来るの?