美しい血肉

日々のことが美しくないなんて嘘だ。

【試し読み】百合と変容

 椹木(さわらぎ)百合香の生まれて初めての記憶は、夢だった。二度と視(み)ることはない、しかしけっして忘れることのできない、夢。
 多分、季節は夏だったと思う。まだ梅雨の名残が居座っていて、激しい雨が降ったり止んだりしていた。鈍い灰色の空は重苦しく、覆い被さってくるようだ。
 六畳ほどの部屋に、ひとりで寝かされていた。熱でもあったのだろうか、額に玉の汗が伝い流れ、両手足の付け根が燃えるように熱くて疼く。
 障子戸一枚隔てた向こう側からは、強い風と雨の音がごうごうと聞こえていた。父も、母もいない。自分はそこで、昼寝をしていたようだった。あれは何歳ぐらいの自分だろう――きっと、五歳くらい。根拠はないけれど、そんな確信がなんとなく自分の中にある。
 ぼうっとする頭に、小さな足音が響いた。どうも、何かを探しているらしい。戸を開けては閉め、開けては閉める音が合間に聞こえた。
 どうしたのだろうと思っているうちに、自分の寝かされていた部屋の戸が開いた。その刹那、自分の腕に強い衝撃と痺れ、耳にどっという音を聞いた。
 あまりの出来事、あるいは夢だったからか。痛みは感じなかった。百合香は茫然と、そこから素早く自分のもう片方の腕と両脚が同じように切り落とされていくのを眺めていた。ただ、なすがままだった。
 左腕を切り落とされた時などは、びゅわっと血が吹き出る瞬間をはっきりと目の当たりにした。今もまぶたを閉じれば思い出せる。床も天井も、障子戸も赤く汚れた。それは外の暗さに冒され、陰鬱な色味をしていた。幼すぎた百合香には、ことの大事さは微塵もわからなかった。
 灰色の紗が掛かったような視界の中、赤が迸る瞬間だけが痛いくらいはっきりと目に鮮やかで、百合香は目を閉じた。そうしてまた目を開けると、次は病院にいた。
 気付いたらそこにいて、身体に包帯が丁寧に巻かれていた。鈍い痛みが脈打つように居座り、だるかった。病室の中は全てが白く清潔で、両の手足と引き換えにこの明るい場所をもらったのだと、その時は思ったものだ。
 本当は、彼女は生まれつき四肢を持たずに生まれてきたのだが、彼女はそれを知らない。
 百合香はこの不可思議な夢をすんなりと信じて誰にも言わなかったし、家族も皆、彼女の身体について語る者はいなかった。
 ただひとつ確かなのは、百合香はその夢から目覚めると同時に人として目醒めたということ。だから時々、自分が「人間」として在るために四肢を失うのは必要不可欠なことだったのではないかと考えることがある。でなければ今も、自分はずっと未分離な粘菌状の、ただ人間の形をしているだけの生物に過ぎなかったのではないか、と。勿論そんなわけはないのだが、しかし、どうしてもそれが真実のような気がして仕方のないときがあるのだ。
 百合香の両親はもちろん、祖父母も、他の周りの大人たちも皆、百合香へ惜しみない憐憫と、窒息してしまいそうなくらいに沢山の愛情を注いでくれた。けれども百合香がそれにいまひとつ馴染むことが出来なかったのは、そんな考えがいつも頭の片隅にいたからかもしれない。
 四肢を持たず、自由の利かない身体を可哀相と言われても、百合香にはそれが当たり前で、どうして可哀相なのか解らない。確かに、ここで腕があったら、歩けたら、と思う場面はあるけれど、それは例えば自分の顔がもっときれいだったら、とか、もっと身長が高ければ、とか、そういった願望と大差ない。自分には両の手足がないけれど、いつも助けてくれる人が周囲にいる。恵まれている。もう、それで充分なのに。
 百合香はいつもそう思い、しかし周囲には一言も言えないで、ただ黙って微笑むばかりだった。
 もしかしたら、周りの大人は彼女の胸の内をわかっていたのかもしれない。なぜなら、百合香は途方もなく美しい容貌をしていて、なかでも少し困った様に微笑んだ顔はまさにその名の通り、白百合の蕾が開くようだったからだ。
 悲しませてでも、困らせてでもいい、その微笑を何度でも見たいと思わせるほどに、本当に、百合香は美しかった。皮肉なことに、四肢の無い歪な身体が、それを更に引き立てていた。
 さて、そうして十一年の月日が経ち、百合香は十六歳になった。冬と春の境目のその日は風がなく、日差しもあたたかかった。
「せんせい、遅いわねえ」
 真っ白なシーツの上に、百合香の美しい緑髪が豊かに広がっている。窓から差し込む陽光を受けて、それは青く光って見えた。
 寝台の上に横たわる百合香からは、窓の外に雲ひとつない青空しか見えない。いつも傍にいてくれていた看護婦には暇を出してしまったし、百合香は退屈だった。
 百合香の身の上を百合香の分まで嘆いてくれていた肉親は、皆他界してしまっていた。父は八歳のとき、母は十歳のときに相次いで労咳(ろうがい)で、祖父は二年半前に心臓病で亡くなった。祖母は生きているものの、心は彼岸へ旅立ってしまっていた。今は同じ病院内にある別の病棟で静かに暮らしている。
 頼れる肉親をことごとく喪った百合香は、祖父が懇意にしていた医師が開いた病院の特別室に入院というかたちで転居した。とはいえ、面倒を看てくれていた看護婦は小さな頃からずっと一緒であったし、彼らが健在であった頃とこの病院に来てからとで、暮らしぶりはほとんど変わらなかった。
 しかし今、この部屋を見渡しても、彼女の物はひとつも見当たらない。横たわる寝台と作りつけの棚があるだけで、その中身も空っぽだ。それは物を必要としない生活を送っていたからではなく、百合香は今日、結婚をして、この部屋を出ていくことになっているからなのであった。
 結婚は、予め決まっていたことだった。互いの祖父が許嫁として取り決めをしていたらしい。相手はこの病院の創業者である藤崎(とうざき)騏一郎の孫、藤崎朱(しゅ)一郎(いちろう)。百合香の主治医でもある。
 朱一郎は今年二十五になる青年で、専門は外科だ。藤崎の一族は代々、優秀な外科医を輩出している名家でもある。百合香の主治医を務めるには朱一郎は専門外の分野となるが、将来の伴侶となる事情も含みで、百合香の担当をしているのだ。
 朱一郎は二男で、今は海外に留学中の二つ上の兄がいるが、騏一郎は彼のことを格別に可愛がっていたらしい。
 二男とはいえ名家の人間が何故、自分のような不具な者との結婚を強いられ、しかもそれを承諾しているのか、百合香には不思議でしょうがなかった。彼ならきっと、嫁の来手などいくらでもあるだろうに。
 四肢のない自分は、何をするにも誰かの助けが要る。食事をするにも、入浴も、排泄さえ、誰かの介添えが必要だ。とても大変で、しかもそれが何十年も続く。そんな負担を掛け続けなければならないのかと考えると、百合香はなんとなく胸が重苦しくなる。しかし、それ以上に百合香は彼を好いていて、嬉しい気持ちがあるのもまた、本当のところでもあった。
 朱一郎はとにかく百合香に優しかった。
 初めて顔を合わせた時、彼は彼女の歪な姿を見ても、ただ穏やかに微笑んでくれた。「よろしくお願いします、僕のお嫁さん」などとおどけてもみせた。診察の時も、たまたま散歩――一日に二回、百合香は車椅子に乗せてもらって、病院の敷地内を散歩するのが日課だった――のときに行きあった時も、朱一郎は百合香には格別の親しさを匂わせた。声を掛けて、前髪を切ったとか、薄く化粧をしてみたのを見つけては褒め、彼女の体を常に気遣った。よく眠れているか、痛むところはないか、具合はいいか。それこそ本当に、患者ではなく家族や恋人を心配するような調子で、朱一郎は百合香に接した。
 まだ年若く、世間に触れる機会も極端に少ない彼女が、朱一郎にうっすらとでも心を奪われてしまうのも無理はなかったろう。そしてそれだけに、百合香は朱一郎の真意がわからずに煩悶するのだ。
 人にはそれぞれ運命があり、それ以上も以下もない。目の前の現実を直視して進んでいくしかない。身の程を知り、慎ましく、実直でいればどんな姿形でもけして不幸になることなく生きていける。それは恵まれた環境であってもままならぬ自身の身体、運命に対するある種の諦念であり、百合香が知らず知らずのうちに身につけていた処世術かもしれない。そのように日々を思い過ごしている百合香にとって、朱一郎との結婚は降って湧いた幸福だった。身に余る、大きな代償を最後に払わなくてはいけないと思わせるほどの。
 朱一郎は一体いつから、百合香との婚約を知っていたのだろう。何故、拒絶しなかったのだろう。
 朱一郎を待つ間、百合香の思考はどんどんと沈んでいった。得体の知れぬ何かに絡め取られていくようでもある。
 結局、朱一郎が百合香の病室を訪れたのは、約束の時間を一時間過ぎた頃だった。
 がちゃりと音がして、扉が開かれる。ほど良く暖房の効いたあたたかな部屋に、廊下の冷えた空気が流れ込んできた。
「遅くなってすみません。患者さんが急変してしまって」
 百合香と違ってあまり艶のない、柔らかそうな黒髪を耳の上で短く切り、銀縁の眼鏡を掛けている。その奥の瞳は柔和だが、急いで走ってきたのだろう、呼吸は荒く頬が紅潮し、髪もぼさっと乱れていた。
「大事な日だというのに申し訳ありません。待ちくたびれてしまったでしょう」
 朱一郎は百合香の傍へ駆け寄り、両の手で彼女の頬を包んだ。それは冷たく、張り付いてもう剥がれないような不思議な感触だった。
「……いえ、大丈夫です。そのような事情でしたら、仕方ありませんわ」
 突然に示されたその、深く踏み込んだ親しさに百合香ははっとした。
 患者と医師という関係から夫婦になるために必要なものが何もない。埋められていない。互いの亡き祖父同士が交わした約束という細い糸が辛うじてふたりを繋ぎとめているにすぎないのだ。しかし朱一郎はそこを飛び越え、百合香の不意を打った。
 触れられたところから熱が生まれる。水を熱したとき、底の方からゆらゆらと滲み出るあのくゆりのように。あるいは音もなく忍び寄り、一夜で蕾たちを満開に咲き誇らせる春のように。
 朱一郎の真意が見えない。わからない。自分のこれからが見えない。理解できない――それでも。
 百合香は朱一郎への幽(かす)かな思慕が今、しっかりと根付き、芽を出したことを自覚した。
 恋を、したのだった。

はじまりのおわり

 カツカツカツ、という靴の音が、がらんとしたフロアに響く。喪服に身を包んだ女性が奥の方から歩いて来ていた。
 十五年も続く世界大戦による電力不足で、フロアの中は薄暗い。その中で彼女はより一層暗い、影のように見える。
「おや、モレー教授」
 そんな彼女へ、初老の男性が声を掛けた。
「どちらへ行かれるのです? 医務室は反対方向ですよ」
 男性は急いでいるようで、早口で問う。
「私は参加しないので」
 モレーと呼ばれた女性はそれだけを答え、歩き去る。
「……なんと」
 男性は驚いた声を出したが、それ以上話している余裕はなかった。あと五分以内に医務室へ行かなくてはならない。
「せめて、神の慰みがあらんことを」
 彼の声が届いたかはどうかはわからない。モレーの背中は規則正しく響く靴音と共に遠ざかり、男性もまた、早足で歩き去ったから。
 モレーは大きな窓へ近付くとその前で立ち止まり、外の景色を眺める。
 そこにはパステル調のピンク、イエロー、ブルーなどにカラーリングされた飛行機がお行儀よく並んでいた。
「本当に、終わりが始まるのね」
 小さな声で呟く。それは誰に聞かれることもなく揺蕩い、消えた。
 優秀な科学者であった彼女に「人類を抹消する兵器を作れ」という命令が下ったのは、僅か一か月前のことだ。
 長く続く戦争は、保有国全てが核のスイッチに手を掛け、誰が初めに押すのか、というチキンレースの体を為すまでに泥沼化していた。そして国連がとうとう「人類にこれ以上明るい未来は望めない」という結論を下し、人類だけを滅ぼす毒の開発を秘密裏に承認したのだ。
 モレーは時間を確認する。二分後、飛行機たちは自分たちの生み出した毒を世界各国へばら撒くべく飛び立ってゆく。
 開発に携わった学者たちには、特別に安楽死の権利が与えられた。この毒は人類に安寧な死を約束するわけではない。ただ脳に「自殺を強制する」だけの毒だ。一瞬で逝ける者もいれば、苦しみぬいて絶命する者もいるだろう。
 人類が絶滅すれば確かに戦争は終わり、世界は平和になる。しかし――こんな方法しか、本当にもう残されていないのだろうか?
 チッチッチッ、と、時計の秒針が時を刻む。こうして悩んでいても時は待ってくれない。飛行機たちがゆっくりと滑走路を滑り出してゆく。
「もし、私たちがすべて間違っていたのだとしても――」
 この選択が本当に正しいのかを確かめることが出来たならいいのに。
 モレーは小さなアンプルを取り出し、静かに自分の左腕へ突き刺した。

おしまいを謳う

 にゃおん、にゃあにゃあ、なおーん。
 私が鳴いた途端に、すぐ近くにいた同居人が凍りついたように固まり、青褪めた表情になった。
「ちょっと、ネロ、やめてよ」
 同居人であるリリアが私に話し掛け抱き上げる。その手つきは優しかったが、微かに震えていた。
 私の名前はネロ、ということになっている。本当はもうちょっと違う名前が良かったのだが、彼女に私の言葉は通じないので甘んじている。
 そう、吾輩は猫、ならぬ、私は猫なのである。
 リリアが青褪めているのは、単純に私が鳴いたからだ。普段私は滅多に鳴かない。数年に一度あるかないか。そして私が鳴くと、必ず誰かが死ぬ。彼女はそれを恐れているのだ。
 十五年前はリリアの祖父が、七年前は友人が、五年前は彼女の母親が亡くなった。いずれも突然のことだったが、私にとっては随分前からわかっていたことだった。
 人間には一つしかないが、猫には魂が九つある。私は今、九つ目の魂を謳歌中だ。これで死んだらもうおしまい。果てしのない、形のない命の渦に呑み込まれ、消える。
 九つも魂を使えば、生き物の死の気配など手に取るようにわかる。それ以外の、超常現象的なことだって。私たち猫は魂を使えば使うほど、毛色が黒に近付いていく。昔から魔女に重用されたり不吉の象徴として扱われたのはそれ故のことで、人間にはそれすらわからないらしいが、一回こっきりの命だ、仕方ないのだろう。
 抱き上げた私をしばらく撫でながら、リリアは窓の外に目を向けた。
「あれ、あの黄色い飛行機、なんだろう」
 のどかで静かすぎる真夏の昼下がりに、それはとても良く似合っていたことだろう。残念ながら私に色覚はないので何色かはわからないが、淡い色彩で塗られた飛行機が、真っ直ぐに青空を突っ切って飛んでいる。あれが見えなくなった頃、リリアは死んでしまうのだ。
 大きな戦争が十何年も続いているこの世界を牛耳る人間たちが、「結局人間が生きている限り、戦争は終わらないし無くなることもない」と結論付け、人類を抹消するために動いていることが、私には視えていた。もちろん、リリア含め他の人間たちは知る由もない。しかし人の世の地獄が始まる。カウントダウンは終わってしまった。それでもどうか、最期が出来得る限り安らかなものであればいいと思う。十八年間、彼女にはとても良くしてもらってきたから。
 にゃん、にゃん、にゃおーん。
 私はもう一度、謳うように鳴いた。リリアと、それ以外すべての人間たちへの鎮魂歌として。

 

*初出:「クジラ、コオロギ、人間以外」

(メイビー)ハッピーヒューマンエンド

 静かに、時が止まったかのように晴れた夏の真昼。東京でピンク、NYでグリーン、パリでブルー、ロンドンでイエロー……世界各地で、それぞれパステル調に塗られた飛行機が目撃された。戦時下だというのに、それは悠々と、淡い色彩のラインを一本、空に引くかのように空を飛んでいた。見た人もいれば見なかった人もいる。音もなく、逃げも隠れもしないが密やかに、飛行機は飛んでいた。
 世界は戦争の只中にあった。
 東欧で始まった小規模な紛争が徐々に各地へ飛び火して戦火を呼び、気付けばそれは第三次世界大戦という名前となっていた。
 それから十五年。無人戦闘機の撃墜数が増えたり減ったり、市民が犠牲になったりならなかったり、そんな、あるのかないのかよくわからない戦争が続き、気付けば世界は重苦しい灰色の空気で満たされ、いつ何が起きるかわからない不安を無限に圧縮し続けていた。
「なんだろう、あれ」
 トミコはアイスを食べながら、ベランダからピンク色の飛行機を目で追う。その日は日曜日で、仕事は休みだった。
 戦争が続こうが続くまいが、日常は続く。日本は憲法を理由にひたすら専守防衛に専念していたから、他国に比べればまだマシな状況だった。手取りは減り、税金と物価は上がったが、とりあえず生きてはいける。自国内のどこもまだ戦闘地帯になっておらず、日本国民の死者は国外で戦闘に従事したか、現地で巻き込まれた人しかいない。だからトミコはアイスを口にくわえながら、水色の空に浮かぶピンク色の飛行機を暢気に眺め続けることが出来た。
「飛行機って、あんなに可愛いものだったっけ」
 ニュースで映る鈍色や迷彩色に塗られた戦闘機を見慣れてしまった目に、そのカラーリングはひどく異様に見えた。今はもう民間機の飛行は禁止されている。国外旅行は当然、国内での移動も公共の交通機関でしか今は許されていない。
 飛行機から目を逸らし、トミコはアイスの最後の一口を食べる。そしてそのままベランダの手すりによじ登ると、そこから飛び降りた。NYでも、パリでも、ロンドンでも、老若男女問わず、すべての人類は何らかの方法を使い、一人残らず自ら命を絶った。
 ちょうど一か月前、国連で秘密裏に可決された法案があった。それを受け、科学者たちはあるもの――人間の知覚では認識できない毒物の開発に乗り出し、成功した。哺乳類網霊長目ヒト科にだけ効くもので、それを摂取すると自殺するよう脳に働きかけるものだ。各地で見られた飛行機はそれを世界中にばら蒔くために放たれた、希望にして絶望の鳥だった。
 こうして戦争は終結し、世界は平和になったのだった。

 

夜のキャラバン

 錠剤をざらざらと飲み下し、お気に入りの毛布にくるまって横たわる。月の光も差し込まない真っ暗な部屋で、私は遠い旅に出る。
 目を閉じてじっとしていると、瞼の裏にぼんやりとした景色が現れる。それは隅々まで青白く照らされた砂漠を行くキャラバン。私一人だけのキャラバン隊。
 嘘みたいに大きくて死んだように白々とした三日月の下、吹き渡る風に舞い上がる砂埃にあえぎながら、私は大きな白い幌を被った荷車と二頭のラクダを従え、歩き続ける。
 いつからここを彷徨っていたのか……わからない。かつてはアメリカ西部の荒野だった気もするし、今、本当は荒涼とした月面を歩いているのかもしれない。まあ、月面であるのなら、あんな立派な三日月が見えるはずもないのだけれど。
 美しい記憶も、悲しい過去も、絶望的な惜別も、手を伸ばさずにはいられない温もりも、何もかもを荷車に積んで、私はただただ歩く。夜が明けるまでずっと。夜が明ける前に辿り着くため。
 私はふと立ち止まり、足元の砂を握ってみる。さらさらと流れ落ちていくそれは、まさに時の流れ。けして元には戻らない不可逆な存在。
 風に流れていく砂粒を見送りながら、私はかつて愛した誰かを想い出したいと願う。あの温度を、熱量を、湿度を、そのまま。しかしそれは決して叶わない。私は渇ききっている。冷めきっている。荷車に積んだものは全て過去。死に絶えた感情や記憶の山。
 歩み続けながら、私はとてつもなく深い海に沈み続けているような感覚に陥る。そここそが目指す場所のはずなのだけれど、何故、私は淡々と、この孤独なキャラバン隊を率いているのだろう。ああ、でもそれは、きっとイコールなのだ。垂直であるか、平行であるかの違いしかなくて、ただ、私が目指す場所はどうしようもなく遠いのだ。
 ざくざくと砂を踏む音。ラクダから漂う、この場には妙に不釣り合いな有機的な獣の臭い。全身にまとわりつく冷たくて乾いた空気、遍く光をこぼす三日月。
 足を踏み出す度に、私からも様々な感情が溢れて落ちる。寂しい、嬉しい、苦しい、楽しい、恨めしい、羨ましい、喜ばしい、誇らしい。
 かつて私にそんな感情を抱かせたのは誰だっただろうか。どんな人物だっただろうか。目指す場所に辿り着けさえすれば、私はその答えを知ることが出来るのだろうか。
 ああ、でも。

「おやすみなさい。いい夢を」

 足はぷつりと糸を切られた操り人形のように動けなくなり、意識は途絶え、私は今この「現在」すべてを置き去りに、この場に倒れる。何もかもを閉ざして。仮死状態にして。記憶の奥底に封じ込めて――そして私は今夜も、深い眠りに落ちる。

「さようなら世界、なんて言わせないよ。何もかもをまた夢に託して眠りなさい。そしてまた眩い生きた朝の光を浴びて、君は未来を生き続けるんだ」

 遠く、遠くで、泣き叫びたくなるほどに懐かしい、忘れたくなかった、誰かの声が聴こえた気がした。

月は腐敗を否定する

 月のない夜、僕はほっとする。まばらに散った星々の灯りと地上の灯りだけを頼りに歩く夜の、底知れない夜に守られているかのように。
 建設途中の公団の壁に設置された蛍光灯に照らされて、そこから顔をのぞかせるノウゼンカズラがまるで死体から零れ落ちる内臓や血のように群れて咲き群れて咲き、地面に落ちて無惨な枯れ様を晒している。
 ああ、花はどれも内臓に似ている。暗がりに息を潜める百日紅の花のピンクも、そういえばその色を模している……いや、模しているのは、僕たちの方なのかもしれない。
 強く握りしめたままのナイフの柄が、ぬるり、と、ぬめった。赤い。粘性の。液体。で。
 ぜぇぜぇと、僕は肩で息をしていた。
 足元には女だった物体が転がっている。脇腹から肋まで引き裂かれた傷口はやはり花盛りで、夏の、湿度の高い空気がその香りを僕の鼻腔まで届けてくれる。
 女は、顔も名前も知らない、不幸にもこんな夜中に僕とすれ違ってしまっただけだ。最近流行りのインナーカラーを施した長い髪、少しふくよかな身体に、綺麗に彩られた長い爪。どこにでもいる、ありふれた、そう、量産されたような姿形の、女。
 月のない夜に、僕は獲物を捜して町を彷徨い歩く。そういう風に、運命づけられている。月が早くに沈んだ後。月が眠る新月の晩。月が遅くまで昇らない夜。
 僕は月に監視されているから。朝も昼も夜も、月が空に浮かんでいる限り、僕はその視線から逃れられない。月は無言で、ただじっと、僕を見続けている――。
 返り血を浴びた服を脱ぎ、用意してきたTシャツに着替えると、僕はその場を立ち去った。
 誰に見られる心配もないが、服を通して肌に伝わる血の生温さが気持ち悪かったのだ。
 そう、僕は誰にも見えない。存在しない。僕は、僕の名は、「腐敗」。夏の夜にだけ存在を許されたもの。僕は人間の魂の腐敗を察知する。誘蛾灯に群がる虫たちのように、腐敗した存在は僕に呼び寄せられる。
 誰も彼もが寝静まった夜に、ひっそりと忍び寄るもの。果物も野菜も肉も逃れることが出来ない事象ならば、人間の魂もそうなのだ。太陽はその灼熱により腐敗を肯定する。大気は無限に孕んだヴァイラスや不純物によってそれを黙認する。僕を止められるのは、咎められるのは、冷えきった太陽の熱を反射し輝く夜の月だけ。だから月は僕を見続け、僕は月から逃れ続ける。
 ひゅぅ、と、僕は口笛を吹いた。きっとまた、魂の腐敗した何者かが僕の元を訪れるだろう。果たして、次の獲物は一体、どんな姿をしているだろう?

短歌放流

鴉鳴き横でそ知らず熟す果樹いずれ腐れど種子は残ろう

 

項垂れど重い目蓋を開ければ無限に広がる白紙の未来

 

新月の呼吸に合わせ指を折る忍び寄る闇手招くように

 

秋の穹銀杏の雨にさらされて一滴混じるは楓の朱色

 

「愛してる」いつかそれすら零れ落ちその形相は鬼か仏か

 

ゆるゆると忍び寄る冬手を取り合い一緒に帰ろう陽が沈む場所

 

目に入る情報すべてが猛毒だこの目を射るは世の美しさ

 

最果ては光の彼方まだ遠く無理解の海泳ぎきれ

 

寂しさをいくつ呑み込み仰ぐれば君は遠のく海の果てまで

 

恋の種類が多すぎて目が眩むほら鮮やかに色鮮やかに

 

今までをサヨナラなんて言わせない僕は生涯恋を乞うから

 

アルコォルというガソリンいれろほら火花散らして生き急ぐため

 

「キスしてよ」言えないからさ煙草吸う君と同じの息が欲しくて

 

満作の儚き香に思い出す君のうなじを照らした春陽

 

「死」は美しいだからみな辿り着けない誰もが知ってて知らんぷり