美しい血肉

日々のことが美しくないなんて嘘だ。

【試し読み】この命をくれてやる。

 深夜の弁当屋を出ると、ずいぶん冷たい風が吹き込んできた。まだ九月になったばかりだと思っていたのに、気付けば十月まであと数日。そろそろ秋冬の服を出さないといけなさそうだ。

 月のない空は暗く、陰気で重い灰色をした雲がのっぺりと浮かんでいる。肌寒さに自分で自分を抱き締めるように腕を組み、帰路を急いだ。

 ここ一週間ばかり客のつきが悪い。来週の今頃もこんなだったら、危ないけれどもっと駅前の、賑わった所に出ていく羽目になりそうで嫌だった。

 ああ、嫌だ嫌だ。早く帰ろう。雲が空だけでなく私の心まで被さってくるような感じがする。

 家は家で地獄だけど、それでもいい。少なくともあそこには、賢治がいる。

 コンクリート打ちっぱなしの、殺伐とした外見のマンション。ここの二階にある部屋、が私と賢治の「愛の巣」だ。

 人気のないエントランスに入り、階段を上がる。午前二時を過ぎたマンションはひっそりと寝静まり、外廊下の蛍光灯がぼんやりと頼りなく灯っている。

 鞄から鍵を取り出し、ドアに差してくるりと回す。

 ドアを開けると、血と腐臭の入り交じった、なんともいえない饐えた臭いが押し寄せてきた。

 明日は生ゴミの日だ。まとめないと。

 短い廊下を進み、突き当たりのガラス扉の向こう、リビングに行く。

 小さなテーブルの上には仕事に行く前に食べたパンの残りと飲みかけの珈琲がマグカップに入ったままで置かれている。その横に雑誌がばらばらと積んであった。

 出掛ける前と同じ。今日も賢治は変わらない。

 私は買ってきたお弁当と荷物を置いて、賢治の部屋に向かう。近づくほど、臭いが強くなる。

「賢治、ただいまー」

 引き戸を開ける。悪臭が襲いかかってくる。閉め切られた部屋の粘ついた空気。もやっとした熱気。

「鴇子、おかえり」

 そんな中、帰宅した事を告げると、機嫌の好さそうな声が返ってきた。

「ご飯、買ってきたよ。お弁当だけど。食べる?」

 床に座っている賢治のもとにしゃがみこみ、目線を合わせる。血の臭いが一層強くなる。

 賢治はこっくりと頷き、笑った。

「最近は鴇子の帰りが早くて、一緒にご飯で嬉しい」

 正直なところ、帰りが早いというのは稼げていないということなので、あまりいいことではないのだけど……賢治の顔が綻ぶのを見るとまあいいか、という気持ちになる。

「そだね。私もだよ。今日は一緒にお風呂入ろうか」

「お風呂、好き」

「賢治はイイコだな! さ、手洗っておいで」

 賢治の足首につけている枷を外すと、彼はすっくと立ち上がった。

 黒いTシャツに下はトランクス一枚。痩せ細った手足には黒ずんだ血がべっとりと付着している。

「賢治、足もね! 血ぜんぶキレイにして!」

 大きな声で言うと、遠くからはーい、という返事が聞こえた。

 

 日本に帰化した南米原産の毒蜘蛛が突然変異を起こし、カーリーという毒を持つようになったのは二十年ほど前だった(と、専門家の間では推測されている)。その毒に冒された人たちが様々な事件を起こしたことで世の中に認知されたのが十年前だ。

 カーリーは数年から数十年をかけて脳内を破壊し、変質させてしまう。その結果MRDRという本来存在しないホルモンを生成し、それが働かなければ脳がブドウ糖を受け取れないようにする。MRDRが働く条件はただひとつ。――「人を殺すこと」。

 毒名はインドの殺戮の女神に由来しており、これらを総称してK症候群と呼んでいる。

 K症候群が発症すると、もう脳組織を元に戻すことは出来ない。およそ三ヶ月に一度、人を殺さないと生きていかれない身体となる。

 K症候群の存在が公になったのは、立て続けに三件の無差別通り魔事件と十件の連続殺人事件が起きたことがきっかけだった。犯人は全員が逮捕されたが、次から次と無尽蔵に発生する殺人事件で国内はパニックに陥っていた。

 当時、私は大学進学のために上京して来ており、アパートで一人暮らしをしていた。そこへある冬の日の真夜中、賢治が突然訪ねて来たのだ。

 彼とは違う大学に通っていたが一緒に上京した幼馴染みで、中学の時から恋人として付き合っている間柄でもあった。

 こんな時間に……と不思議に思いながらドアを開け、卒倒しそうになった。今でもあの光景は脳裏に焼き付いて忘れられない。

 赤黒く染まった身体。片手には知らない男性と思しき胸から上の部分を持ち、もう片方の手にはそこから引き千切ったであろう腕を持っていた。

 叫ぶことも出来ずに立ち尽くす私に、賢治は虚ろな目をして言った。「俺もカーリーだ。殺してくれ」、と。

 だけど私はそうしなかった。急いで彼を風呂に入れ、全部を身綺麗にさせた。

 K症候群の患者を見つけたらすぐに警察へ通報し、身柄を引き渡さなければならない。その後、彼らは診察を受け、K症候群だと確定し次第、専門の施設に隔離される。その後、どうなるのかは、誰も知らない。

 賢治は殺人の直後で比較的に意識がしっかりしていたが、ひどく混乱していた。とにかく死にたい、施設には行きたくないと泣きながら私に繰り返した。

 私は何故、あのときに彼を匿おうと思ったのだろう。何処まででも、二人でなら逃げられると確信したのだろう。

 背筋から一本、冷たい液体を流し込まれたみたいに、私は冷静だった頭の中で想像出来る限りの可能性を仮定し、シミュレーションし、決断した。

 その夜の内に私は左手を包丁で切った。不思議と痛みはなく、淡々と、無感情に、床に出来る血溜まりが大きくなるのを眺めていた。記憶は確かにある。傷跡も残っている。でもあの時、自分が何を感じ想っていたか――それだけが思い出せない。

血が止まってから手当てをし、賢治名義でレンタカーを借りて逃げた。一晩も二晩も走って、走って、出鱈目な所に乗り捨て、電車とバスを乗り継いで、縁もゆかりもない今の街へ辿り着いた。

 世間では私は生死不明の行方不明者となり、今では戸籍上死んだことになっている。賢治は私の誘拐と殺人容疑で指名手配中だが、大して大きなニュースにはならなかった。

 部屋に残してきた男性のバラバラ死体と私の血痕から、K症候群を疑い、警察あたりが情報管制を敷いたのかもしれない。

 でも、まだ確定されていない。賢治を捕まえて直接調べない限り、不可能だから。

 ――それが十年前のこと。永くて短い日々。

「鴇子ぉ、タオルちょうだいー」

 洗面所から賢治の声が聞こえてきた。

「はいはい、今行くからねー」

 私は立ち上がった。べりっと膝下で何か剥がれる感触があった。見ると、血がついている。心なしか生臭い。

「鴇子ぉ?」

「はいはい、今すぐ!」

 これが私の日常だ。

私は構わず、急いでタオルを取りに行く。

 

【試し読み】×チル。

 何年経っても、ねえ、私のみかたでいてくれる?

 

 

 午後十時二十一分。滅多に鳴らないスマートフォンが、ポロン、と、声を上げた。

 

『明日、十九時に、雪緒の働いてた喫茶店で。』

 

 たったそれだけの文章がロック画面の上に浮かんでいる。画面を開くまでもない。きっと、これ以上の言葉はないだろう。

 十五年ぶりの連絡だというのに随分と素っ気無い。相変わらず変わっていないなあと苦笑する。

 僕はスマートフォンを手に取り、了解、とだけ返した。送信完了になったのを確認してから、それをまたテーブルの上に戻す。

 遠い日のふたり。連綿と続く明日を信じられなかったふたり。僕はとっくに大人になって、信じようが信じまいが明日が来ることを知ってしまったけれど……君はまだ、そこに取り残されているのかい?

 悲しいような、嬉しいような、不思議な気持ちだった。

 どうして、というべきか。どうしよう、というべきか。明日のことを一瞬考えるけれど、考えるまでもない。

 なぜなら僕はあの日、約束をしたのだ。メールの主である透子と。

 

 

 透子は高校の同級生だった。

 その名前の通りに透きとおった白い肌、日光の下では薄茶色に透ける黒髪。誰もが憧れる端正な顔立ちの美少女で、バレー部の部長もやっていたし、生徒会の副会長でもあった。とにかく目立つ存在だったのだ。

 一方の僕はというと、中肉中背、これといって特徴のない学生で、どちらかといえば透子に一方的に憧れるだけの人間だった。

 今思い返しても不思議でならない。どうして僕ら、こんなに親密になれたのだろう、と。

 きっかけは透子が僕のバイト先へ客としてやって来たことだった。

 その喫茶店は叔母が経営している店で、昼は軽喫茶、夜はスナック、という業態のところだった。僕は帰宅部で暇だったので、よく駆り出されていたのだ。十八になって車の免許を取ってからは、夜に働く女の子たちを家まで送り届けることもあった。

 その日もまた、いつも通りの営業だった。

 昼休憩をとりに来る人、暇つぶしに来る人、怪しげな勧誘をしている団体客……そんな人々でそれなりに賑わっていた午後、カラン、というドアチャイムの音がした。

 ちょうど出来上がったナポリタンを客席へ給仕しながら入口へ目を遣った瞬間、僕は息が止まるかと思った。

 いるはずのない、来るはずのない――何せこの店は学校の最寄り駅から四つも離れていたし、急行も止まらないから、同級生が来る可能性なんてほとんどなかったのだ――憧れの人、透子がそこに立っていたからだ。

 今思えばだからこそ、透子はあの店を選んだのだろう。自分を知る人が誰もいない場所を探していたのだ。

 けれど、僕がいた。幸いだったのは、僕が誰の目にも止まらないような平凡な人間で、同じクラスになったこともなかったから、彼女が僕の存在を認識していなかったことだ。

 透子は伏し目がちに、おどおどした様子で店の入り口に佇んでいた。

「いらっしゃいませ。空いてるお席へどうぞ」

 驚きのあまり僕は声が出なかったが、厨房からすかさず叔母が出てきて彼女を客席へ促してくれた。

 透子はその声を聞くと少しほっとした表情を浮かべてあたりをきょろきょろと見渡し、店の一番奥の席へと向かった。

 もっと明るい窓際の席も空いていたというのに、彼女は店内に漂う煙草の煙でいくらか煤(すす)けて見えるその席をまっすぐに選んだ。きっと、そういう人目につかぬ隠れ家的な場所が必要で、そこでやっと、一番深い息を吸えたのだろう。

 席に着くと彼女はアメリカンを頼み、鞄の中から取り出した文庫本を読み始めた。そのとき、ちらりと見えた本のタイトルを僕は見逃さなかった。

 きっと知らず知らずのうちに僕は透子のことばかり盗み見てしまっていたのだろう。あの時、見てはいけないものを見ているような気がして、出来る限りそちらへ視線を遣らないよう気を付けていたというのに。

 本のタイトルは、「死についての文学」というタイトルだった。明治、大正、昭和時代の作家の遺作ばかりを集めた短編集で、僕も読んだことのある本だった。

 思春期にありがちなことだが、僕はその当時、「死」という現象に強く興味を奪われていて、それについての書籍を読み漁っていたのだ。

 日本では「死」は強く嫌忌される。死体の写真も動画もすべてモザイクが入るか規制によって放映されず、道端で死んでいる小動物も数時間後には何処かへ持ち去られ処理されてしまう。

日本で生きている限り、死は日常から遠く隔離されている。事件や事故で人が死んだことが報道されても、現場の血痕ひとつ映されない。伝えられない。身内や友人が死んだときだけ、死はそっと近づいて、その冷たい手で僕らの世界の頬を撫でる。

そんなクリーンすぎる世界への微かな違和感が、僕を逆に死に引き寄せた。触れてはいけないからこそ、知ってはいけないからこそ、知りたかった。見てみたかった。人が、生き物が、死ぬ瞬間。それからの経緯。その顛末。

 僕はバイト代を少しずつ貯めて、いつかインドへ行こうと思っていた。日常的に道端に死体が転がり大いなるガンジス川に流されているという、当時の僕にとって死と人々の当たり前の営みが雑多に溶け込んでいる世界がどんなものなのかを肌で感じるために。

 だから透子が読んでいた本のタイトルは、鞄から出したほんの一瞬しか見えなかったというのに、僕の心に強く焼き付いた。もしかしたら同じ感情を共有できるかもしれないとさえ思った。

 実際、その予感は半分外れて半分当たったのだが――透子が僕の存在をきちんと認識するまでには、ここからまだもう少しのタイムラグがある。

 重い灰色の空が覆いかぶさってくるような曇天の寒い日だった。

 僕はその日、注文していた本が入荷したと聞いて電車を乗り継ぎ、隣町の本屋まで出かけていた。

 手袋をした手だけが妙な熱を持っていて、冷たい風に吹き晒された頬は冷え切っている。二月ももう終わるはずなのに、春の気配はどこにもなかった。

 透子が店に来るようになって半年ほどが経つが、彼女は週に一度か二度の頻度でやって来ていた。いつも変わらず声をかけられるまで入口に立ち、初めて来た時に座った一番奥の席が彼女の定位置となっていた。

 僕も何度か案内したり給仕をしたことがあったけれど、彼女は一向に、僕が同じ学校の生徒とは気付かないようだった。

 それが少し残念であったし悔しいような気持ちもしたけれど、彼女の「聖域」を守れるのならその方がいいとも思っていた。

 憧れが恋になる、それも普段は誰にも見せない姿を見せられているならそれは当然の帰結だろう。しかし実際のところ、僕は透子に恋はしなかった。

 大事な宝物を愛でるような、掌の上で小さくも儚く、暖かい生き物を慈しむような、そういった言葉の方がしっくりとくる。

 だから知られる必要はない。声をかけることもない。しかしいつか、同じ視点を持っているかもしれない彼女と話してみたいと思ってはいたから、僕は一方的に、彼女との距離感を縮める機会を窺(うかが)い続けていた。

 目的の本屋は、この辺りでは一番大きな繁華街のある駅から歩いて五分ほどのところに建っていた。

 今はもう無くなってしまったが、当時、流行り物でなかったり、少々マニアックな本を手に入れるためにはここへ行く以外、手に入れることができなかった。

 注文してあった本というのは、戦場カメラマンが数年前に自分の個展で図録として出した、屍体写真ばかりを集めた写真集だ。それが何故か、急に一般の写真集として再販されたというので予約をしたのだ。

 当時普及し始めていたインターネットで購入することも出来たが、クレジットカードなんて当然持ってはいないし、履歴に残る。

 何を言われるわけでもないと思いつつも、なんとなく僕はこの好奇心の存在を家族には知られたくなかった。

 僕にとっての大人になるために必要な通過儀礼としての死への興味を、保護者に観察されながら行うなんて、考えるだけでぞっとしない。

 本屋の前に立つと自動ドアが勝手に開いて、「いらっしゃいませー」という、店員の乾いた声が聞こえてきた。

 本屋独特の新しい紙と古い紙、インキの入り混じった匂いが僕を安らがせる。

 まっすぐレジへ行き、予約していた本を受け取ろうとした。そのとき、とん、と、誰かが肩にぶつかってきた。

「あ、ごめ……」

 反射的に振り返ると、そこにはよく知った顔をした少女がいた。

「……んなさい」

 大きな目を更に大きくして、少女……透子は僕を見つめていた。

 きっと顔を覚えてくれてはいたのだろう。しかしその時、僕らは高校の制服を着ていた。僕が同じ学校の生徒であり、しかも学年まで同じである――僕らのいた高校は学年によって男子はネクタイ、女子はリボンの色が違っていた――ということに彼女も気付かないはずはない。

 さり気なく目を逸らし立ち去ろうとする透子の腕を、僕は強く掴んでいた。

「待って」

 怯えたような表情で、透子は僕を見た。初めて至近距離で彼女の顔を見たのがその時で、ああ、髪と同じで瞳の色も薄く綺麗だなあと思ったことをよく覚えている。

「あの、どうして」

「僕も同じ本を買いに来たんだ。……よかったら少し、話をしないかい?」

 彼女が胸に抱えていた袋からは、うっすらと中に入っている本の表紙が透けて見えた。それは僕が買いに来た本と全く同じタイトルで、僕はああ、もうこれは運命だと、半ば思ってしまったのだ。

「え、おな……?」

 状況をまだ把握しきれていない透子をその場に置き去りにして、僕はすぐにレジへ向かい支払いをして本を受け取った。そして彼女の腕を今度はそっと掴むと、本屋の外へと連れて行った。

「びっくりしたよね。驚かせてごめん」

 僕は彼女をこれ以上怯えさせないよう、小さく静かな声でゆっくりと喋った。

二の句も継げず、彼女はそこに立ち尽くしている。

 校内での透子は、いつもふんわりと光を纏っているようだった。眩しいほどではない、でも自然と視線を投げてしまう。何かあれば話しかけたいと思ってしまう。そしてそれに対して相手の顔色を窺っているというわけでもないだろうに、透子は常にその希望を真摯に受け止め、巧みに相手の願望を叶えてしまうようなところがあった。

 しかし今目の前にいる透子に、その輝きはない。

 長い髪を後ろで束ね、黒いダッフルコートにデニム。化粧っ気のない顔は青白く、冴えない。別人のようだ、とは言わないが、あの時の透子はふわふわと頼りない、寄る辺のない青褪めた影を引きずっているように弱々しく見えた。この僕が、咄嗟の出来事とはいえあんな風に強気に出られたのも、そのせいかもしれない。

 無神経なのは自覚していた。でも、それ以上に僕は、僕の知的好奇心について共有できるであろう透子を捕まえられたことにかなり興奮していたのだ。

「君が店でいつも読んでる本は、僕も読んでた。だから一度、ゆっくり話がしてみたかったんだ」

 本屋のある通りを抜け、裏路地を進みながら、僕は透子に語りかけた。何も言わず、彼女も後をついて来る。あまり人気のない静かな喫茶店があって、そこでゆっくり話をしたいと考えていた。

 店へ向かう道の途中、最後の曲がり角で僕は立ち止り、向き直った。

「迷惑なら、ここで別れよう。もちろん、君が知られたくないだろうことは誰にも言わない。約束するよ」

 ちらちらと風に揺れる水面のような瞳をして透子は押し黙っていた。本屋の袋がくしゃくしゃになるくらい抱える腕に力を込めて、彼女は迷っていた。

 後に、僕はこの時のことを彼女からこってり怒られることになるわけだが、しかしそれを差し引いても魅力的な誘いだったとも言われた。

 そう、彼女はここで僕の誘いにイエス、と言ったのだ。

 こうして僕たちは秘密を共有することとなった。それは僕が想像していたものから遥かにかけ離れていたものだったけれど……でも、よかったのだと思う。

 ほんの僅かな時間、星の瞬きのようなものに過ぎなかったのだとしても、僕は透子に寄り添い、救いになれていたのだろうから。

 

 

 当時、僕たちは高校三年生になろうとしていた。

 期末試験も試験休みも終わり、後は消化試合のようにして次の学年までの日々を学校で過ごすだけ。

 校内では互いに知らんぷりをしていた。僕が働く喫茶店でも、今までどおりを貫いた。互いのことを下の名前で呼び合うまでに大した時間はかからなかったが、自分たちの秘密の趣味を守るために、この間柄は誰にも知られぬようにしたいというのが、透子の希望だったのだ。

 僕たちは週に二、三回、本屋のある駅にある喫茶店や彼女の部屋で、死についての思いや知識を披露しあった。

 彼女の両親は多忙なようで家にはいつも誰もいなかった。弟がいたが、本家の跡を継がせるため養子に出されたらしい。交流はほぼ無い、とのことだった。

 彼女の家が名だたる旧家であることはそのときに知った。

「古い家だからね、血が濃すぎるのかな。頭のおかしい人間がよく生まれるのよ」

 紅茶を飲みながら、透子はよく、自嘲気味にそんな話をした。当時の僕は「頭のおかしい人間」という意味をよくわからないで頷いていた。

「私も、その血統を正しく受け継いでしまったのかもしれない。だからこんなに『死』について知りたいと思ってしまうんじゃないかとよく思うの」

 首をちょこりと横に傾け、しばらくの間、考え込むように遠い目をする。そしてぽろりと零すように、透子は簡単な身の上話をした。後にも先にも、そんな話をしたのはこの時が最初で最後だったと思う。

 死、という概念を知ったのは、彼女が十歳の頃、叔父が自殺をした時だと言っていた。

「現場は見ていないのよ。死に顔も……首吊りだったみたいなんだけど、納棺してくれた人やお医者様が綺麗に整えてくれて。ちっとも怖くなかった。ただ悲しくて、私、周りの大人たちの数を数えてしまったの」

 父、母、祖母、祖父。母方の祖父は戦争で、祖母は癌で透子が生まれる前に亡くなっていた。あとは叔母が一人、他の親戚縁者たち。

「こんな悲しい思いを、この人数分味わわなくてはならないって思ったとき、気が狂ってしまいそうになった」

 それを克服したくて、透子は死んだ叔父の日記を読み、図書館や本屋へ通いつめ、死について学び続けたという。忍び寄る黒い影を、いつか必ず来るであろう恐ろしい未来の気配を振り切るようにして。

「雪緒は、家族に亡くなられた方はいるの?」

 僕は首を横に振った。

 父はサラリーマン、母は専業主婦。どちら方の祖父母も、何かしら病気を患っているとはいえ、今すぐ死ぬような状況ではない。

「……だから知りたいのね、死がどんなものか」

 わからないからこそ、知り得ないからこそ、それに興味を惹かれてしまった僕は、透子からすれば滑稽で莫迦(ばか)な男だっただろう。けれどそのことを、彼女はけして否定しなかった。入口はどうであれ、目的は何であれ、二人の間には仮想の、あるいは現実の死が同じ顔をして重苦しく繋がれていたのだから。

「私はどうなのかなぁ。私も、雪緒と一緒にインドへ行ってみたら吹っ切れてしまうかもしれないね」

 透子の部屋の本棚には参考書や近現代文学の背表紙が並んでいた。きっとそもそもが読書家なのだ。

 透子の本当の蔵書は、その後ろに隠されていた。

 背の高い風景写真集の裏に、この間一緒に買った写真集が。ハードカバーの裏に学術書が。新書の裏に文庫本が。几帳面な彼女の性格通りに本は綺麗に並べてあり、しかしどれをとっても、彼女の虞(おそれ)を失墜させるには至らなかったのだろう。

「どうかな。本物を見ても、透子は変わらないと思うよ」

 無知が故の、ゆきすぎた興味本位で死を眺めている僕と彼女は違う。彼女は生身の死を最も多感な時期に、最悪の手段で受け入れてしまっている。

 僕は透子と向き合っているとき、ときどき、自分を殺しに来た死神と対面しているような気持ちになることがあった。

 彼女の死への興味はもう、その範囲を逸脱している。このままゆけば、いつか――そんな妄想が頭をかすめた。しかしそれは決して悪いものではなく、実のところ恍惚とした夢想と言い換えてもよかった。

 彼女のあの美しい顔立ちが、この世のものではなさそうな色素の薄さが、目の前にある現実からリアリティを剥ぎ取っていたのかもしれない。

「……ナイフのベクトルって知ってる?」

 僕は再び、首を横に振った。

 透子はそれをみて、ただ黙って微笑むばかりだ。

 

 

 気づけば時計は午前零時を指そうとしていた。

 明日は朝一から打ち合わせがある。遅刻する訳にはいかない。

 念のため、透子からまた連絡が来ていないかを確かめるためにスマートフォンをチェックしたが、何もなかった。

 明日の目覚ましをセットしてから、歯を磨くため立ち上がる。

 

『明日、十九時に、雪緒の働いてた喫茶店で。』

 メールの文面がふっと、彼女のあの、芯のあるやわらかなメゾソプラノの声で蘇った。

春待ち

 今日は二月四日。春が始まる日。

 陽が随分と伸びた。遠くからオレンジ色の光が放射状に広がって、街並を舐めるように染め上げている。まだ風は冷たく鋭く、コートの襟を掻き寄せずにはいられない寒さが続くけれど、暦が変わっただけでほっと一息つけるのは何故なんだろう。

 夕飯の買い物客でごった返している商店街を、肉や魚をうっかり、或いは思わず買わないで済むように気をつけながら通り抜け、まだ帰りたくないと愚図る子供が遊ぶ公園のある角を曲がるとすぐそこが俺の家だ。
 野ざらしなのになんとなく埃が厚く積もっているように見える錆びた鉄の階段を、カンカンカンと上っていく。鍵を開けて立て付けの悪いドアを開くと、部屋の中は夕陽の色に満たされていた。

 築四十年と言っただろうか。外壁はひび割れ、いつ建て直すといわれてもおかしくない風情のアパートだが、俺の部屋には真西に大きな窓が一枚あって、しかもその方向には建物がひとつもないために夕陽を独占できる。それだけがこのアパートに住むことに決め、以来引っ越すこともない唯一の理由だ。

「……ん。朔ちゃん?」

 不意に、足元から声がした。

「なんだ、花、来てたのか」

 視線を落とすと、寝惚け眼の恋人が横になって俺を見上げている。

「うん…、今日の夕陽は綺麗だろうなあって思って。でも寝ちゃった」
 真っ黒な髪が畳の上で扇のように広がり、三日月形に細められた黒目がちな目には橙色のフィルターがかかっていて、なんとなく物憂げに見える。

「それにしたって遅いよ、朔ちゃん」
「田中のヤツが遅刻して上がれなかったんだ。親父さんが倒れたらしい。しょうがないだろう」

 脱いだ上着を適当に放り投げて、ごろごろと寝転がる花の脇に座り込む。

「んー。じゃあ、しょうがないねえ」

 花も起き上がって、俺の肩にもたれかかってくる。

「なんか、香水つけた?いいにおいがする」
「いや、なんもつけてないよ」

 漂ってくる、あまい香り。痩せていても、不思議とやわらかい身体。夕陽の色に素直に染め上げられた白い肌の首筋にそっと指で触れてみた。
 頭ひとつぶん低いところにある彼女の顔は何一つ疑うことなく安心しきっていて、耳たぶの長さに切り揃えられた毛先が落とす影の濃さが目に強く映る。

「……そうか」

 強い風が、外で吹いている。がたがたと窓枠を揺らす音が、強すぎる風が、ノイズのように俺の心をかき乱しに来る。

 不意に、とても、とても残虐な願望が頭をもたげてきた。のしかかって俺の影にうずめてしまえば誰にも知られずに彼女を壊せるような、俺の影の中でだったら、花を踏みにじってもいいような、そんな。

「朔ちゃん?重いよぅ……」

 首筋から滑らせるように肩へ降ろした手で掴んだ肩は、その中にすっぽりと埋まってしまうほどに細い。簡単に砕けてしまいそうだ。
 俺は花をゆっくりと押し倒して、上からもう一度、彼女を見下ろしてみた。

「花」

 春なのに、部屋の中はひどく寒い。手がバカみたいに熱くて、なんとなく不快だ。俺はそのまま、しばらく彼女のことを眺めていた。踏ん切りがなんとなくつかないようで、今すぐに行なってしまうのは惜しいようで。くすぶる衝動を転がしながら、俺はしばらくそのままでいた。
 花は花で、何かを感じ取ったのだろうか。ぎゅうっと、固く目を閉じて、やはり同じようにじっとしている。

 ――そうしてそのまま、ゆっくりと青紫に沈んでいく部屋。

 ふと窓の外に目を遣ると、白い月が中空にぽっかりと浮かんでいた。どのくらい長い間そうしていたのか。気付けば、彼女はささやかな寝息を立てて寝入ってしまっていた。
 こんな状況で寝てしまえるなんて、一体どういう神経をしているんだろう。思わず苦笑してしまったけれど、ふと視線を外すと薄暗がりの中に投げ出された白い足首がほのかに発光しているように見えて、それはなんだかこの世のものじゃないみたいで、俺はごくりと息を飲んだ。

 ――まだ。まだ、ダメ、だ。

 冷え切ったかかとを、そっと掌で包む。きれいに、きれいに、凍らせた薔薇を、手の中でまるめて粉々にするように。

 いずれ、俺は彼女を正しいやりかたで壊し、咀嚼し、飲み込んでしまうだろう。それはきっととてもすてきなことだけれど、一瞬で終わってしまう刹那い出来事。それまではもうちょっと、今のままのもどかしい距離を揺れていたい。

「ねぇ、はな」

 気付けばもう空は真っ暗に更けていて、地平線のオレンジがほんの僅かに境界線を誇示するように光っていた。

 俺の春は、まだ、もう少し、先。

【試し読み】仔羊の観測

 うららかな、春の初めの陽射しがふんだんに降り注ぐ午後。男はゆらゆらと、まるで目的を失った回遊魚のようにして街を彷徨していた。

 時に煙草をふかしながら、時にビールを片手に持ちながら、夜になるまでをそうしてあてどなく歩き回るのが彼のルーティーンで、意味はない。

 ただ淡々と、変わり映えのない景色を眺め、何かひとつでも相違点がないかどうか点検するように、しかし実のところ、男の目は何も捉えてはいない。ただ漠然と、求めているものが何かを求めるようにして、男は歩き続けていた。

 いつからそれを始めたのだろう? わからない。それが当たり前だった。産まれてすぐの仔馬がまず最初に為すのは己の脚で立ち、歩くことだ。それぐらいに、この日々のルーティーンは必然とさえ言える、習慣そして男の人生の根幹を為していた。

 幸い、出所はわからないが彼には生活に困らないだけの資産があり、一日中をそのためだけに費やす余裕があった。

 風は冷たいものの陽射しが強くて、不意に息苦しさを感じる。いつの間にこんな気候になったのだろう。まったく、春はある日突然に、強引かつ忍び足でやって来る。

羽織ったツイードのジャケットが少し重苦しく感じられたので脱ぎ、左腕に持って肩へばさっと掛けた。

 少し休憩しようと思い、男はベンチを探した。そのうちに記憶にない大きな公園――いや、庭園という方が相応しいかもしれない――の入り口を見つけた。

 その庭園には芝生が広がっており、その縁をなぞるようにして季節の花々が植えられていた。それらはとても目に鮮やかで美しかったが、何故か誰一人として散歩している人間は見受けられない。人の多いところは苦手だ。丁度いいと思い、男は庭園に足を踏み入れた。彼の肩ぐらいの高さで造られた門があったが、そこに庭園名を示すプレートは貼られていなかった。

 確認した通り、見渡す限り人影はない。しかし庭は良く手入れされ、神経質さを感じさせるほどに整っている。

 男は煙草に火を点け、花々の脇をまた泳ぐようにゆらり、と歩き出した。ベンチを探そうという目的は、いつの間にか男の中から忘れ去られていた。

 足元で咲くのはビオラだ。それらが時たま、吹く風に揺れるだけの変わり映えしない景色なのに、それは男を妙に興奮させ、魅了した。手入れされすぎて逆に無機的に思えることが、男にとって心地よかった。

 どこまでも広がる芝生を、花を、なぞるように歩く。いつしか風も止んで頭上には穏やかな青空が広がっている。まるで時を止め、永遠の中へ迷い込んでしまったような感覚に、ぞくりとした快感を得る。誰も立ち入りが許されていない場所へ踏み入ってしまったような。何処まで行っても終わらない迷路の中へ立ち入ってしまったような、そんな。

「おや、珍しい」

 不意に声を掛けられ、男は身構えた。

 「立ち入り禁止でしたか?」

 不審者扱いされることには慣れている。思わず慇懃に応え振り返ると、笑い皺を深く刻んだ初老の男が佇んでいた。

「いいえ。でも、ここは見つけにくいみたいで、滅多にお客さんは訪れないんですよ」

 白いシャツに黒いスラックス、麦藁帽をかぶり足元はゴムの長靴というちぐはぐな格好の彼は、灰色の目を細めにこやかにそこに立っていた。

「ああ、そうなんですね。」

 だからこそここを選んだというのに。内心、舌打ちをしたいような心持ちで、男は当り障りのない返事を返した。会話するのは苦手だ。出来るだけ、手短に済ませたい。

「私はここの管理人なんです。やぁ、お客さんが来てくれるのは、やはり嬉しいものですね」

 管理人だ、と名乗る初老の男はそう言って、さらに相好を崩した。

「ちょうどね、花を植え替えたばかりなんですよ。三色菫がまだまだ綺麗ですが、ペチュニアも混ぜてみたんです。もうそろそろ、時季が終わってしまいますからね。ペチュニアの緑に花の色が映えて綺麗でしょう。これから暖かくなって、蕾がつくのが楽しみですよ」

 男の気持ちを知ってか知らずか、管理人は捲し立てるかのように話を続ける。

「お住まいはこの近くですか?」

「ええ、散歩に来られるくらいには」

「ほう、それはいいですね」

 他愛ない天気の話から、管理人は男の年齢や仕事を聞き出した。

 無論、本当のことなど言いはしない。面倒だ、と思いながら、男は適当な話をした。年齢は三十五歳。仕事はライター。ちょうど大きな仕事が終わり、一年ほど休暇を取ることにした……よくもまあ、これだけすらすらと嘘の話が出てくるものだ。自分で自分に関心しながら、男は管理人と雑談を続けた。

「そうだ、近くに私の家があります。よければそこで、お茶でも飲みませんか」

 会話を終わらせ、出来るだけ早く立ち去りたいと思っていたのに、男は何故か、管理人の言葉にいいですよ、と答えていた。

 一体どうして? 自分で自分に疑問を抱きながら、しかし少しだけ面白がっている自分もいる。男は退屈していたのだ。日々、街を彷徨い続ける生活に。

 ふたりは並んで、ゆっくりと歩き出した。十分も歩けば、管理人が住む家があるという。

 無言のまま、ただ同じように見える景色を淡々と行く。ただそれだけなのに彼は何故か、この男には心を開いていいような、そんな感情を抱かせた。

 管理人の家は小さな二階建ての、家というよりは小屋と呼ぶのがいいような小さな建物だった。白く塗られた外壁に、くすんだ赤色の三角屋根。その頂上に小さな風見鶏と十字架が飾られている。

「ここは教会?」

 問うと、管理人はゆっくりと首を横に振った。

「いいえ。近いものではありますが、厳密には違います」

 そして今もまだ目の端に広がっている芝生の方へ、さっと手を広げる。

「ここは墓地なのです」

 ぐら、と、男は眩暈を感じた。黒い影が兆す。大きなカラスが、男の頭上を飛び去って行った。

「公園ではなかったのですね」

「まあ、それも間違いではないのですがね。その程度の、立派で大げさな場所ではありませんから」

 管理人は謙遜するように眉を八の字にして微笑んだ。

「さあ、どうぞ。お入りください」

 ドアを開け、招じられるままに男は中へ足を踏み入れる。

 中はカーテンが閉め切られているために薄暗かったが、清潔感があった。

 食器棚の中はよく整頓されており、細々したものは壁の戸棚に仕舞われている。テーブルの上にはシミひとつない生成りのリネンが敷かれていた。

 管理人はさり気なく椅子を引き、水が流れるかのように自然に男を座らせた。 

 今までの人生のなかで、こんなことがあっただろうか? 他人と必要もない会話を交わすだけでなく、ふたりきり、場を共にするなんて。

 これまでになく不自然な出来事だ。小さな違和感が心の表面にさざ波を立てる。何となしに居心地が悪い。

 男はそのことを悟られないよう、努めて口角を上げ、管理人を見た。

 テーブルに対してキッチンは平行になる位置になっていたため、男は細々と動く管理人の背中を眺めるかたちになる。

 彼はカーテンを開け、水を注いだケトルを火にかけた。ぱっと明るくなる室内、しゅぼっという音とともに一瞬、鼻を掠めるガスの臭い。食器棚からティーポットを出してコンロの脇に置き、男の前に位置する椅子に座るとテーブルの上に置いた菓子箱の蓋を開け、男にそれを勧める。

「頂き物の焼き菓子です。お嫌いじゃなければどうぞ」

 管理人はどこまでも柔和で、世話好きのようだった。あるいは、滅多に人の訪れないこの孤島のような場所で久しぶりに人間に会えたことが嬉しかったのかもしれない。

 湯が沸くまでに、ふたりは他愛のない話をした。それは天気だとか街の様子だとか、話したそばから忘れられていくような、そんな内容のこと。

 他人と交流しない主義の男にとってそれは若干の苦痛を伴ったが、次第に新鮮で興味深い時間へと変わっていった。今まで見えていた世界が濁ったセロファン越しの世界であったなら、管理人との時間はそのセロファンが取り除かれた、鮮明な世界だった。

 自分以外の他者が何故、他者の存在を求め対話を必要とするのか、その輪郭がおぼろに浮かび上がってくるような気がする。あくまでも気がするだけで、やはり自分には必要と思えないのだがしかし、その新しい発見は男を心なしか安堵させる作用を持っていた。

「おや、お湯が沸いたようですね」

 シューッという音がしたのをきっかけに会話が中断され、管理人が立ち上がった。

 ゆっくりとした動作で丁寧にケトルを持ち上げ、まずはティーポットに湯だけを注いで捨てる。それから茶葉を入れてまた湯を注ぐ管理人の一挙一動を、少し焦点をぼかすような視線で眺める。ケトルの口から流れ出る流線が、真正面にある窓から差し込む陽射しを受けてメタリックに輝いていた。

 管理人は温まったティーポットに、それぞれ違う柄のティーカップを添えてテーブルの上へ置いた。

「本当はポットと揃いのカップがあったんですが、私の不注意で割ってしまって。少し不格好ですが、気にしないでください」

 そう言って紅茶で満たされたティーポットにそれぞれ違う柄のティーカップを添えてテーブルの上へ置いた。

 温和な声とともにとぽとぽと、丁度良く煮出された紅茶がカップの中へ、香り豊かに流れ込んでゆく。

 室内いっぱいに、バラのような匂いが立ち込めた。外の芝生とあまり香らないビオラが咲く庭園より、ここの方がよほど庭園らしい気がする。

 管理人の仕草、表情、言葉には、無碍にできない何かがあった。日々庭園を整え、死者を見守り続ける生活が、彼にそのような雰囲気を纏わせるようになったのかもしれない。

 二人は紅茶を飲みながらまた、会話を再開した。それは酸素のように当たり前にある、毒にも薬にもならない内容ではあったが、男はもう、それを不快に思うことはなかった。

「もうすぐ三色菫の時季も終わるので、そろそろ、芝桜を植えようと思うのです」

「さきほど、違う花を植えたと言っていませんでしたか」

「ああ、ペチュニアが咲くまではまだ時間がかかりますからね。三色菫と入れ替えに、芝桜を」

 これから咲くというペチュニア、という花がどんな花なのかを男は知らない。だからきっと、ビオラが三色菫のことなのだろう。紫、黄色、白色に彩られた花びらを思い浮かべる。なるほど、だから三色、菫か。

 自分には知らないことが多くあるのだな、と男は思う。道端や民家の庭に咲く花の名を、男はひとつも答えられない。咲く花、繁る木々を見てああ、花だ。だとか木だ。と認識するのを、ただそれだけで知った気でいたのだ。その奥に在るもの――それこそ名前や色、姿形などがあるということすら、考えずに。

「――それで、もし良ければ、あなたにも手伝っていただきたいのですが」

 思索にかまけていた男の耳に、その言葉は突然、飛び込んできた。

「手伝い?」

 自分でも笑ってしまいそうになるくらい、間延びした声で男は聞き返す。

「ええ。もしお時間があれば、ですが。この歳になると流石に、ひとりですべて行うには骨が折れます。手伝ってくれる方を探していたんですよ」

 男は働いたことがない。ただ、泳ぐのをやめたら死んでしまう魚のように、毎日あてどなく街をうろついていただけだ。そんな自分に、彼の仕事の手伝いが可能だろうか? 男はどう返事をしたらいいかわからず、呆然と管理人を見た。

 帽子を脱いだ彼の頭髪は白に近いグレーで、室内で少し暗いせいもあるだろうか、屋外で見た時より老けこんで見える。目尻には深い笑い皺が何本も刻まれ、髪と同じ灰色の瞳が男をまっすぐに見つめていた。

「ああ、それならば……」

 どうしたことだろう。口が勝手に動く。俺は何を言おうとしているのか。思考が乖離して、冷静に、今までと同じ日常を辿ろうとする自分と、違う道を往こうとしている自分がいる。今立っているのは二叉路――でも、選べない。自分は、彼の頼みを、

「いいでしょう。お役に立てるかは判りませんが」

 承諾してしまった。

「ありがとうございます。力仕事ですが、あなたなら大丈夫でしょう。では明日の朝から頼めますか?」

 管理人は目を細め、心からの笑顔を浮かべた。

 こうなってしまったならもう、仕方がない。男ははい、とだけ答え、紅茶を口にする。

 茶はもう冷めきっていた。動揺している彼に味はわからず、ただ冷たい液体が食道を流れ胃に届く感覚がするばかりだ。

 その後、しばらくまた話を続け、きりのいいところで男は席を立った。

「長くお引止めしてしまってすみません。また明日、よろしくお願いします」

 管理人はおそらく、男より二十は年上だろう。しかし庭園――いや、墓地という方が正しいのだろうが――の入り口まで男を見送ってくれた。

 家の外はただただ広い芝生とそれを縁取るビオラペチュニア、まばらに立つ木があるだけで、同じような景色が続く。今いる場所が上手く把握できない。ただ単純に、足元に植えられた花をなぞって歩けばいいだけだが、延々と途切れなく続き、いつまでも門に辿り着けないような感覚になる。管理人がいなかったら、ここからもう出ることがかなわないような、そんな。

 気付けば日が暮れようとしている。ふたりの足音が暮れ方の空に吸い込まれていく。鳥の声ひとつせず、風すら吹かず、植物たちはじっと、静物画のようにそこにある。

 家の中では饒舌だった管理人も、門のところまではずっと無言だった。もともと話すことに意味を見出さない男もまた、同様に無言で長い帰り道を行く。

 ニ十分ほどで、ふたりは庭園の出入り口に到着した。一ヵ所しかないらしいその門の脇で管理人は小さく会釈をし、すぐにくるりと後ろを向いて立ち去って行った。

 今までの社交性は何だったのだろう? 人が変わってしまったようで、騙されたようで、何とも言えない気持ちになりながら、男もまた軽く頭を軽く下げてその場を後にする。

 太陽は沈み、その残光を空に投げている。建物の隙間、オレンジから濃紺に染まるグラデーションが天頂に向け、放射状に広がるのが見えて綺麗だ。

 家へ向かいながら男は逡巡する。庭園を整える仕事とは一体どんなものだろう? 花を掘り出して、新しい花を植える。伸びすぎた樹木の枝を剪定鋏で切り落とし、芝生の長さが均一になるよう、草刈り機を動かす。

 頭の中では思い浮かぶが、それを自分が行う、となると上手くイメージが出来ない。適した服は……デニムに、シャツ? 上着がないと寒いだろうが、生憎と、男は泥だらけになってもいいようなジャケットは持っていなかった。

 体を動かしているうちに暑くなって気にならなくなるかもしれない。そういえばあの管理人も、白いシャツ一枚だった。それに麦藁帽と長靴。まるで真夏の農作業中みたいな格好だ。

 同じような服を着て花を摘み、植える自分の姿をもう一度イメージし直してみる。燦燦と照る陽射し、明るく瑞々しい緑の芝生。その縁をなぞる様に咲く花々を壊れ物のようにそっと土から引き抜き、新しい花をまたそこへ埋める。言葉にするのは簡単だが、自分のこととは思えない。どこか他人事のよう、ただ漫然と、映画の画面を眺めているみたいだ。

 考えるだけ無駄、とにかくやってみないことには仕方ないだろうと男はひとりごちた。

 いつも通り盛り場へ繰り出して酒を飲むつもりだったが、なんとなく興が乗らない。男は角を曲がり、まっすぐに家へと向かう。

 経験したことのない出来事が多すぎた。そして今頃、自分が何時に庭園へ行けばいいのかを聞き忘れたことに気が付いた。

 明日、きちんと起きられるだろうか?

 不眠症でどれほど遅い時間に眠っても、深酒をしても数時間で覚醒してしまうので大丈夫だろうと思うけれど、万が一のこともある。目覚まし時計が必要だろうか? しかしもう家へ向かう道すがら、この先に店はなく、手に入れる術はない。戻るのも億劫だ。

 決まった時間に決まった場所へ行く――例えば学校など――というのは、男にはほぼ経験がない。いや、あるはずだが、記憶に留まっていない。

 気付けばこうして、一日中を持て余す自分だった。まるで何かの役を羽織るかのように何の疑問も持たずに目覚め、街を徘徊し、酒場で酒を飲んで眠る。それだけが彼のもつアイデンティティであり、人生だった。

 それが今、変わろうとしている。何かが動き出している。

 男は歩きながら煙草を取り出し、ライターで火を点けた。吐く息よりも白い煙が、男の口から吐き出される。

 陽が沈んで、一気に気温が下がった。風が冷たい。

 ああ、何処へ行こう――。

 決まり切っているのに、何故かそんな言葉が男の口から零れ落ちていた。

 

 雲ひとつない青空を見て、「今日は死ぬのにもってこいの日だ」と言ったのは誰だっただろう。凍り付いた氷河、あるいは透明度の高い水晶のような空が広がっている。

 男はぼろぼろに着古して捨てようと思っていたデニムを引っ張り出し、白いシャツ、深いグリーンのベストを着て庭園を訪れた。

 時間がわからなかったが、早い分には問題ないだろうと早朝に家を出た。腕時計の文字盤は七時半を刻もうとしていた。

 どこへ行けばいいかわからないので、とりあえず管理人の家を目指して歩く。確か、芝生の縁をなぞって行けば辿り着けるはずだ。昨日は気が付かなかったが、よく見れば一応、人が歩くための道として砂利が敷いてあり、その上を歩けば迷うことはなさそうだ。

 何故あの時、ひとりでは庭園の外へ出られないと、永遠にこの中を彷徨うことになりそうだと思ってしまったのだろう。逢魔が時。魔が差したのかもしれない。

 十分ほど歩いたところで、管理人の姿を見つけた。しゃがみこみ、花を丁寧に掘り出している。

「おはようございます」

 声を掛けると、管理人は顔を上げて穏やかな笑顔を男に向けた。

「おはようございます。朝早くから、ありがとうございます」

 管理人の傍らには抜かれたビオラが無造作に積み上げられ、その脇にまたビオラの詰まったバケツ、明るいピンクと白色の花を咲かせた鉢植が置かれていた。

「これは?」

 ビオラを見て、男は問う。

 花の縁が少し萎れているが、まだまだ綺麗だ。植え替える必要など感じさせない。

「三色菫と、新しく植える芝桜です」

 しかし管理人に、男の質問の意図は伝わらなかったようだ。

「いや、まだ枯れていないのに、もう?」

 男はもう一度、管理人に問い直した。すると彼は不思議そうな顔をした後、真顔になった。

「花は美しいうちに摘んで、芝生に撒きます。ここに眠る死者と枯れゆく花への弔いです。季節はどうしても移ろい、それと一緒に花も時季が終わってしまう。醜く枯れてしまう。その姿を晒し続けることの方が、私は残酷なことに思えます」

 花は何のために花として生まれてきたのか? それは、美しく在るためだ。ならば最も美しい姿で摘み取ってしまうことこそが、花にとっての幸せな最期なのではないか……そのようなことを言いながら、管理人は優しく、バケツの中のビオラを撫でる。

 限界まで生を全うすることが、必ずしも正しいわけではない、ということだろうか。であれば、男にも理解が出来た。むしろ共感してしまうくらいに。

「ここからぐるりと一周するように三色菫を抜いていってもらえますか。私は新しい花を植えていきますから」

 何事もなかったかのようにまた穏やかな表情に戻った管理人は、小さなシャベルと軍手を手渡した。

「それでは、よろしくお願いします」

 そしてそれだけを言って、くるりと男に背を向けた。

 ――気分を害していなければいいのだが、男にはわからない。大した疑問ではなかったと思うのだが、突然、真顔になった管理人に戸惑ってしまう。他者と接するのは難しく、その割に得られるものが少ない。

 今更ながら男は、管理人の申し出を受諾してしまったことを後悔した。

 退屈でもいい、こんな気まずい感情を覚えるなら、ただ身勝手に街を徘徊している方がよほど楽だ。しかし一旦引き受けた以上、逃げるわけにもいかない。

 男は軍手を嵌め、シャベルを持って言われた通り、ビオラを選って掘り返していった。

 ビオラといえば白、紫、黄色の三色のイメージしかなかったが、よく見ると庭園にはピンクやオレンジ、青色など様々な色の花が咲いていた。形が一緒だから男にも判別がついたが、そうでなければ同じ種類の花だと判らなかったかもしれない。

 柔らかな光がふんだんに降り注ぐ、気持ちのいい日だった。少しずつ日照時間が伸び、ゆっくりと降りていく太陽の陽射しが暖かい。

 先日植えたというペチュニアはまだ緑の葉を茂らせるばかりだが、その色彩のアクセントが目に心地よく、男は黙々と、いつの間にか時間も忘れて作業に没頭していた。

 ふと顔を上げると、管理人がいた。一体、いつからここにいたのだろう? まったく気が付かなかった。

「どうかしましたか」

 男は慌てて立ち上がった。

「お昼をご用意したので、届けに来たんですよ」

 管理人はいつもと同じ、穏やかな笑顔をしている。

 奇妙な既視感を覚えた。二十四時間前も、そのまたさらに二十四時間前も、自分はここでこうしていたような。昨日、一昨日、明日、明後日もずっと同じことをして、それはまるで時空の中に閉じ込められたようで――。

 逆光が眩しくて、男は一瞬、目を閉じた。太陽を背に、管理人が立っている。

「ありがとうございます」

 男は素直に礼を言った。

「お口に合うといいのですが」

 管理人はオレンジのマドラスチェック柄の包みを差し出し、

「私は家で食べます。あなたも、どうかお好きなところで召し上がってください。また一時間に再開していただければ結構です」

 それだけを言って、帽子をちょこっと持ち上げ頭を下げると、立ち去って行った。

 彼の背中を見送りながら、男は受け取った包みを開く。中には、ライ麦パンで作られたサンドイッチが入っていた。中の具はポテトサラダ、ハム・トマト・レタス、卵の三種類。

 作りたてらしきそれは男の手の中で、小動物のような温い温度を持っている。パンはトーストされているのか、こんがりと香ばしい香りがした。

 不思議。不思議だ。何もかもが不思議だ。

 男は混乱していた。さっき、時空に閉じ込められたような気がしたから? 管理人の背後にあった太陽が眩しすぎたから? 手の中のサンドイッチがあたたかいから? どれもそうであるだろうし、そうじゃない気もする。わからない。男には本当に、何もかもがわからない。

 腕時計を見ると、昼の一時だった。今から一時間は好きに過ごしていいらしい。まずはこれを食べる場所を見つけよう。

 困った時はまず、目の前にあるもの、最初に手を伸ばして届く物事から片付けるのが正解だ。

男は辺りを見回し、腰を下ろすのに丁度よくしっかりと、太く根差している木を探した。出来ればよく陽の当たる場所が望ましい。

幸い、庭園内には樹齢の長そうな立派な木が多かったため、男はそう時間をかけずに理想に近い木を見つけることができた。その根元に座ってサンドイッチを食べ、余った時間は読書すればいい。

 男は現実世界には興味を抱けなかったが、空想の世界はとても好きだった。殊に本が好ましく、書物ならファンタジーでも、SFでも、戦記・伝記でも、哲学書でもなんでもいい。ただ、その一冊に閉じ込められた著者の頭の中にしかない宇宙を覗き見ている感覚が楽しくて堪らない。誰に感情移入するでもなく、ただ俯瞰し、ありのままその世界を眺める。何故、彼・彼女(ら)はそういった行動に出るのか、結末に至るのか、小さな箱庭の中をつぶさに観察する。たとえ、誰一人として共感し得る人物、状況がもたらされなくとも。

 片手にサンドイッチを持ち、男は鞄の中から読みかけの本を取り出した。

 二十年ほど前に書かれたもので、作中において『物語』――つまり劇中劇なのだが――が徐々に機能を失い死んでいく。それにまつわる様々な人や事物が大きく揺り動かされ、世界の輪郭が消えていく様子を描いた、ディストピア小説だ。

 物語を語る「語り手」と物語を綴る「書き手」が、徐々に見えなくなった目で探り探り歩くようにして、二人の思い出の『物語』について語り合いながらストーリーは続いていくのだが、『物語』という概念そのものが死滅していく中、ふたりが確かにあるのにそれを表す言葉が見つからず戸惑いながら、苦しみながら、なんとかしてその形を、爪痕を、自分の中へ残そうとする様が美しく、何とも言えない歪な安寧感を醸し出している。

 男はうっとりと目を閉じ、小説の一言一句を反芻してみせる。現実は彼の心を動かさないが、現実に存在する誰かの物語という架空は心を震わせてくれる。物語はあくまでも現実の似姿で、限りなく同じに近い何かだからだろうか。本物より紛い物の方が美しく輝くこともあるのだ。きっと。

 気付けば片手に持っていたサンドイッチも無くなり、時計はあっという間に二時を指し示そうとしていた。

 まだ、頭が小説の中から切り替えきれずにぼうっとする。

 誰が見ているわけでもないのだからもう少しゆっくりしても良いような気もしたけれど、気が引けて、男は作業へ戻るために立ち上がった。

 今いる場所から作業していた場所を眺めると、淡かったり濃かったりする芝桜の花のピンク色が、芝生の外縁に沿って伸びているのが見える。その途上には摘まれたビオラの屍骸があると思うと、まるで葬列のようだ。

 葬列……ああ、そうか。ここはそういえば、墓地であったのだ。

 男は幾ばくかの時間、その景色をぼうっと眺めていた。

 同じ景色だというのに、庭園だと思って見るのと、墓地だと思って見るのではこんなに心持ちが変わるものなのだろうか。

 自分にとってここは庭園に近いが、管理人にとってはやはり墓地としての在り方が大きいのか。果たしてどうなのだろう。

 他人のことを気にかけるなんて、一体自分はどうしてしまったのか。管理人から与えられた影響はそんなにも大きかったのか。まだ、知り合ってから一日しか経っていないのに? 自分は、彼は、互いのことを何も――そう、名前さえ知らない。

 男は知らない。ここに誰が眠っているのかさえ――。

くしゃくしゃくしゃ、という音。(駄目だ、これはもうおしまい)

 

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【試し読み】かみさまの骨

 雪がちらほらと降り始めた。

見上げた空は淀みも雲もひとつもない青空で、天頂で輝く太陽の光は強く、まるで暴力のようだというのに。

 セスは小さな溜息をつき、右手に持っていた大きな傘を急いで広げた。がじゃん、と、耳障りな音を立てるそれは持ち手から骨、傘の部分まですべてが淡い飴色の金属で出来ている。小柄な彼の身体をすっぽりと包んでしまえるほどの広さがあり、日差しに負けぬくっきりとした色濃い影のフィルターでその姿を覆い隠した。

 右を見ても、左を見ても、地平は黄みがかった白色一色に占められ、空の青とのコントラストに目が痛くなるようだ。

 セスはその景色の中を、両手でしっかりと傘を握り締めながら、とぼとぼと歩いてゆく。何処へ行くのかは自分でもわかっていなかった。ただ、彼には他にすることも為すべきこともなく、そうする以外にはないような気がしていただけだった。

 時折、強かったり弱かったりする風が吹き、足元に積もる白いものを散らかしたり、壊したりする。それはかしゃんかしゃんと言いながら転がり、砕け、粉となって彼の裸の足を汚した。

「いたい!」

 びくりと身を震わせて、セスは立ち止まった。風に煽られた雪が、袖のまくれた彼の手首に落ちたのだ。それはじゅっと音を立てながら肉を焼き、醜い水膨れを作る。

 よく見ると以前にも同じような目に遭ったのだろう、幾つもの火傷の痕や傷跡がその身体のあちこちに刻まれていた。

 雪のように見えるそれは、雪ではなかった。突然世界に降り注ぎ、生きとし生けるものを滅ぼした白い欠片。触れた生き物の肉を焼き融かし、触れた建物や植物を白い砂に変えてしまう不吉なもの。それを「かみさまの骨」と最初に呼んだのは誰だったのだろう。「箱舟では足りないから、かみさまはもう何もかもを滅ぼすしかないと思ったんだ」などと言いだしたのは。

 滑り込むように続けて二、三、吹き込んだそれの痛さに身をすくめ、立ち止まったまま、セスはやがて崩れるようにしゃがみこみ、顔をくしゃくしゃにして歯を食いしばって痛みに耐えた。

気づけば世界はこうなっていた。かみさまの骨に支配されていた。抗う余地はなく、こんな風にしてやり過ごす以外に術はない。

 触れたものすべてを滅ぼしてしまう雪片も、セスが持つ金属の傘のことだけは存在を許しているらしく、その下にいれば彼は痛みに苛(さいな)まれずに済んだ。重さがネックだったけれど、それもいつしか筋力が追いつき、問題ではなくなった。

 見渡す限りが白い景色だ。青空も、いつしかかみさまの骨の白色とそれに削られたなにかの砂埃に浸食され見えなくなっている。空の色さえ殺してしまうのかと、セスはまた溜息を吐く。紛れもなく、白は不吉な、忌むべき色だった。祝福のしようがない存在を、彼は出来る限り目にしたくなくて、目を伏せて俯(うつむ)いた。

 視線の先にある小さな自分の足を汚す白い砂は、かつて生きていた誰か、何か、の骨だ。あるいは何かの建築物や植物の残骸だ。今も小さいけれど、もっと小さい頃に自分と一緒にいてくれたメイという女の人が言っていた。みんな死んで、腐って、こういう白いものになって、かみさまの骨に打たれ、粉々になってしまった。誰が誰かわからなくなってしまった、と。

 メイが居なくなってからどのくらいの時が経ったのだろう。つい最近のような気もするし、途方もなく昔だったような気もする。彼女はとても優しかったけれど段々気がおかしくなって、言葉が喋れなくなって、動けなくなって、最後にはとても嫌な臭いがするモノになってしまった。それでもしばらくの間は傍に寄り添っていたが、やがて耐えられなくて胃の中のものを全部吐いてしまい、逃げるようにしてセスはその場を立ち去ったのだ。

あれから太陽が何回沈んだか、最初のうちは指折り数えていたけれど、二百から先は数の数え方を教わっていなかったから、そこでやめてしまった。

 しゃくしゃくと白い砂、いや、骨の粉を踏む。あの人もこの中に混じっているのかもしれない。それは嬉しいことなのか悲しいことなのかよくわからないけれど、また会いたいと、それだけは思う。

 目から塩辛い水が零れそうになったので、セスは上を仰ぎ見た。涙というんだと教えてもらったけれど、彼女に教えてもらったことを思い出したり使ったりすると寂しくなるから、あまりその言葉を使いたくない。

 かみさまの骨は降り止まず、セスに触れられない事に苛立っているように彼の周りをひらひらと舞い散っている。そばかすの散った頬を赤く染めて、セスは空を睨みつけた。

 一体自分は、何処へ行こうというのだろう――そんな問いも浮かばない程、彼は幼かった。歩き続けているのはただ、目の前に世界が広がっていて、他に何もやることがないから。誰もいないから。メイ以外の人に会えるのではないかと期待してしまうから。

 無限に横たわる空っぽの時間を持て余しているだけだ。気付けば生まれていて、メイに伴われて歩いていた。そしてメイもいなくなってしまったけれど、泳ぐのをやめると死んでしまう回遊魚のようにして、彼は今まで通り歩き続けてきた。

セスの心にはまだ動機が必要とされていないのだろう。

 訥々(とつとつ)と歩き、歩き続け、それに倣(なら)うようにかみさまの骨も降り続けていた。それは永遠のようだった。終わりのない、廻り続ける回転木馬のような。

 

 

 太陽がすっぽりと地平に落ち、あわあわと立ち昇る残光も途絶えた頃、ようやくかみさまの骨が止んだ。音もなく降り続けたそれがいつ姿を消したのかセスにはわからなかったが、嬉しかったのだろう。ほんの少しだけ笑顔のような表情を浮かべ、傘をゆっくりと閉じた。

 かみさまの骨が止んだ後には、ほんの少しの間だけ、セスの食べるものが降る。

白い綿のようなそれはかみさまの骨みたいな姿で、だけどひとつ違うのは、たまに見える星のようにきらきらときらめているところ。

 セスは腰に下げた袋から陶器で出来た皿を取り出した。この中にいっぱい溜まったら、ちょっとずつ指ですくいとり、口に含む。甘くてすぐに溶けてしまうそれは彼の胃を充分に満たし、咽喉を潤してくれる。

 メイはこれを甘露(かんろ)と言ったり、マナと言ったりした。違う名前で呼んだ意味はあるんだろうか。わからないけれど、これを食べると満ち足りた気持ちになれるからいい。

 マナを舐めながら、セスは大きな石で出来た柱の前まで来ると、その場に立ち止まった。

陽が暮れた後は眠る時間だから、今夜はここが寝床に丁度いいだろう。

 かみさまの骨はあらゆるものを無に帰し続けたけれど、中にはまだいくらか姿を留めているものもある。古木や、何千年もそこに在り続けた建物なんかがそうだ。セスが背中を預けた石の柱は半分風化しつつあるが、土台の部分はまだしっかりとしていた。纏わりつく白い砂を払うと、やり過ごしてきた時間の重みを感じさせる濃い灰色が覗く。

久しぶりに見た、白じゃないとはっきり判る色彩に、セスは安堵した。そうして自分の背中が幾つも収まるほどの範囲をはたき、灰色の面積を増やす。摩擦で手がひりひりするのに耐えられなくなった頃、彼は満足そうな顔をしてから金属の傘を開いて柱に立て掛け、その下に入ると膝と膝の間に頭を埋めるように座り込んで丸まった。

 ほとんどなかったが、かみさまの骨は夜降ることもある。寝ている間に痛い思いをするのは嫌なので、いつもこうやって眠ることにしているのだ。

「オヤスミナサイ」

 小さな声で呟き、セスは目を閉じた。メイがいつも、眠りに就く前に言っていた言葉。意味もわからないけれど、これを言っておくと悪い夢を見ないで済むような、そんな気がしていた。

 

 

そんな昼を、そんな夜を、一体何度繰り返したのだろう。

 セスの髪も、手足も背丈も、荒れ野に芽生えた竹のように真っ直ぐに伸びた。かみさまの骨が刻んだ傷跡も容赦なく増え続け、唯一の保護者のように傍に在り続けた傘も縁が欠け、骨が曲がっていた。

 遠く、目の前が灰白色の靄(もや)で霞(かす)んでいる。空は晴れなくなった。暗褐色の雲に塗り潰され、かみさまの骨が降らない時間はほとんど無くなっていた。

 穴だらけの雑巾のようになってしまった服の袖を指で伸ばすようにして、手首が見えないように隠す。露出した部分はほとんどが焼け爛れて、かつては白く滑らかだった肌は黒ずんだ潰瘍に覆い尽くされていた。

 

 ――ねえ、どこまでいくの。もうやめちゃえばいいのに。

 

 ふと、突然、空から声が降ってきた。甲高い、幼い声。

 

 ――ねえ、返事してよ。つまんないよ。

 

 目線をちらりと上に動かして、しかしセスは顔を強張らせたまま、黙って歩く。メイと過ごした日々は遥か遠ざかり、現か夢か、淡い記憶でしかない。今さら話し相手が出てきたところでどうしろというのだろう。メイ以外の誰かに邂逅(であ)う希望は、とうの昔に棄てていた。

それに、セスが応えようが黙っていようが、空から投げかけられる声は自分勝手に喋り続けるのでどちらにしろ変わりはなかった。

 

 ――ねぇ、おしゃべりしてよ。

 

 吹きすさぶ風が足元の白い砂を巻き上げる。ミルク色のつむじ風がセスの身体にぶつかって砕けると、その中に孕まれていたかみさまの骨が彼の服の中へ、礫(つぶて)のようにばら撒かれる。

 声も出さず、セスは身体を大きく痙攣させてその場にしゃがみ込んだ。

 晒されていた部分も服の下に隠されていた部分も関係がない。強風に煽られるようにして吹き込んだかみさまの骨が、容赦なく彼の皮膚を焼く。じゅうっと、肉の焦げる厭(いや)らしい臭いが鼻をつき、胃腸の奥からこみ上げるものを我慢することが出来ない。

「うえっ、うぇ、うえーっ、うぇっ」

 胃をくしゃくしゃに丸められたような、底の方からぐっと引っ張られているような、無茶苦茶な不快感。ぜえぜえと肩で息をしていると、誤って雪を吸いこんでしまったらしく、咽喉の奥に激痛が走り、血混じりの痰がとめどなく出た。

 滅茶苦茶だ、こんな世界。これじゃ、メイが狂ったって仕方ない。

 口元を押さえた指の隙間から洩れる血が混じった胃液の酸味が更に吐き気を誘った。ああ、もういやだ。イヤだ。嫌だ。本当に厭(いや)だ。

 傘の縁が肩にめり込んで痛い。刃物を押し当てられているみたい。いや、もしかして、ざっくりと切れているんじゃなかろうか。震える手で痛む場所に触れると、血は出ていない代わりに酷く熱を持っている。防衛本能として、一時的に身体が過敏になっているのだろう。

 自分で自分の心と体を宥(なだ)めながら、セスはじっと痛みに耐えた。唇を噛んで気を逸らす。上手くいかないけれど、他に方法はない。強く目をつむった。滲んだ涙の熱が沁みる。

 どこまでいくの、やめちゃえばいいのに――空から届く声が、頭の中で今更反響した。本当に、自分はどこまでいくのだろう。どうして歩き続けているんだろう。

 少年と言うよりも青年と言うほうがしっくりする年頃になったセスは、ふと首を傾げる。

 気付けば歩いていた。最初はメイと。そして、今はひとりで。疑問なんて感じたことなく、不思議に思ったこともなかった。

 白い色しかない、死んでいくばかりの世界の中をあてどなく彷徨(さまよ)う日々に、救いも、甲斐もない。けれどセスは、まるで誰かの祈りそのものであるかのように、たゆみなく、ただひたすらに歩き続けてきたのだ。

 声が言うとおりに、もう、やめてしまおうか。

 じんじんと痺れる身体を持て余しながら、唐突に、そう思った。

 どこか寄りかかれるところを見つけて、そこでぼんやりと座りこめば。横たわれば。眠ってしまえば。あっという間にかみさまの骨が自分の身体を貪り、殺してくれるだろう。痛みは酷いに違いないけれど、十二分に知り尽くした感覚だ。今更恐れることなんてない。

 虚ろな目で、セスは空を仰ぎ見た。心が揺れた時、いつも空を見る。白以外の色を見たくなる。けれどもう、希望の青色さえ彼の瞳には映らない。とめどなく降り注ぐかみさまの骨が、何もかもを塗り潰してしまう。それがまた、更に立ち上がる気力を奪う。

 意味もなく、ただ、慣性のように歩いてきただけだ。今ここでそれを終わりにして、何が困るというだろう。

 傘を持ち続けていた手から力が抜けた。肩口から背中へ、切りつけるようにして傘の縁が滑り落ちる。がじゃんがじゃんという耳障りな音がする。間髪をいれず、かみさまの骨は吸い寄せられるように、セスの身体へと纏わりついた。

 薄れつつあった痛みがまた、鮮やかになる。身体の表面が痛みの水玉模様で埋め尽くされ、小さなうめき声が断続的にセスの口から漏れ出た。

 しかし何故だろう。覚悟さえ決めてしまえば、そこまで激しい痛みではない。目を固く閉じ、歯を食いしばっていればやり過ごせるような気がする。勿論、これは少しずつ蓄積し、最終的にはまた耐えられない痛みになるのだろうけれど。

 

 ――ああ、先に意識を失ってしまえばいいんだ。

 空を見上げたまま、背中から倒れ込んだ。傍らに転がる傘を手で手繰り寄せ、顔の部分が下に隠れるように位置を整える。まだ青空を見たいという気持ちはあったので、目を潰されるのは嫌だったのだ。

 錆びの浮いた飴色の傘と、白の中に淡い青が見え隠れする天上。色彩の柔らかさがほんの少しだけ、心を慰める。

「おい、今ならちょっとだけ、話してやるよ」

 そう言えば、いつもはしつこいくらい語りかけてくる声がいなくなっている。

「どうしたんだ、いなくなったのか」

 そう言って、セスは返事を待った。待っている時間が、細かいガラス片のようにして心の表面をこすり、流れていく。

 いち、に、さん、し、…… …… ……。セスはゆっくりと数を数える。いくつ数えた頃に返事が来るだろう。しかし、二百を五回数え終わっても、とうとう空から声が降って来ることはなかった。

 指先から、自分の命が液体になって出て行ってしまっているようだ。その場をまさぐるけれど、ざらざらとした白い砂の感触がするばかりで何もない。

「ああ、何もないな」

 強い実感が、思わず口から零(こぼ)れ出る。胸の、疼くような痛み。鳥肌が立つような寒気に似た悪寒が、身体の表面を嬲(なぶ)る。

「何もない」

 この感覚は知っていた。遠い遠い昔、メイがいなくなってしまったとき。あわい水彩画を何重にも重ねたようなおぼろげな記憶の中で、彼女が動かなくなって、そうして悪臭を放つ【物体】になってしまったときにも、同じような感覚に襲われたのではなかったか。

 繋がった鎖を引きずりだすように、さまざまな思い出の断片が彼の目前に現れる。やわらかかった白い手、その暖かさを道しるべにするみたいに歩いた日々。口元についた甘露を拭いながら、あの人は静かに微笑んでいた。かみさまの骨が降る中、夜空と同じ色をした長い髪が揺れて綺麗だった。

 あの人はどうしていなくなってしまったんだろう。どうして僕を置いていってしまったんだろう。

 目からじわりと、熱い水滴が溢れる。それはとめどなく彼の頬を伝い、耳を伝って流れおちていく。

 吹く風がいよいよ強く、彼の身体にかみさまの骨を叩きつけるけれど、痛みも感じなくなっていた。ただ全身が燃えるように火照るだけ。一度研ぎ澄まされた感覚は急速に衰えていた。即ちそれはセスの衰弱を意味していたのだけれど、まだ彼自身にその自覚はない。

 涙で視界が歪むのが不快で、振り払うように数回の瞬きをする。そうする度に眠気が強くなり、彼の意識を粘つかせる。

 メイがいなくなってしまったことに理由なんてない。ただ、耐えられなかっただけだ。負けてしまったのだ。本当はきっと、自分のことを道連れにすることも出来ただろう。身代わりにすることもできた。捌け口にだって。だけど彼女はそれをしなかった。ただ、一切を自分の身に引き受けて、壊れてしまった。

 あの時にもう少し、自分が強かったら。大きかったら、助けてあげられることができたんだろうか。まだ、今も一緒にいることが出来たんだろうか。そんなことを考える。意味がないことを知っているけれど、それはほろ苦い郷愁と希求だった。メイがここにいたらきっと、セスに教えただろう。それは「寂しい」という感情だと。

 

 閉じては開け、閉じては開けていた瞳がとうとう、言うことを聞かなくなってきた。もうこれ以上は眠気に耐えられそうもない。

 いよいよ、自分も、メイと同じになるんだな――そうひとりごちる。怖いとは思わなかった。重い荷物を下ろしたときの安堵感といくばくかの虚脱感がぼんやりと彼の胸の中にたゆたうばかりだ。

「……オヤスミナサイ」

 セスはひっそりと呟いた。目を開けた時に、メイがいたらいいなと、そう、思いながら。

 

 

 耳元を吹き荒ぶ風の音で目が覚めた。

 ここは一体どこなんだろう。反射的に、首から上を持ち上げた。白い砂粒がさらさらと微かな音を立て、一斉に滑り落ちていく。

 どういうわけか、セスは生きていた。それもほぼ無傷で。誰の、何の思し召しだというのだろう。胸から下の部分を見下ろすと砂に埋まっていて、それらが彼の身体を覆い隠し、神さまの骨から守ってくれていたらしい。

 右腕を、左腕を、順々に持ち上げる。さっきと同じようにして、砂はさらさらと零れ落ちる。

 顔以外、身体は大丈夫だった。誰かが意図したとしか思えない。顔だけを残して、全身が砂に覆われるなんて。そうして、死なずに助かるだなんて。

 辺りを見回すと、斜め後ろに傘が埋もれているのが見えた。石突きのところを僅かに覗かせて、傘もまたすっぽりと砂に覆い尽くされている。

 放心したような表情で、セスは目に映る景色を見るともなく、ぼんやりと見ていた。

 薄墨色の空。白い砂に埋め尽くされた地平。膨大な時間をかけて崩れていく建物や巨木たちの心許ないシルエットが、点々と彼方に見える。

「なんで、」

 掠れた声で呟く。

「どうして」

 

 ――どうして、生き残ってしまったの。

 

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夜の少年

雨が上がった後の夏の夜の空気はとても重い。てのひらを泳がせると、纏わりついてくる。ぴたりと張り付いて皮膚の上でもぞもぞと蠢くのを、手でぺりっと引き剝がす。カットバンを取った時みたいな感触。夜は生き物だ。

あまりたくさんの夜をそうやって張り付けるとやがて全身を呑まれて帰れなくなるから、こんな風に闇の濃い夏の夜に出歩いてはいけないと、よく、ばあちゃんが言っていた。

「おい、もうそろそろ行くぞ」

「まって。まだもうちょっと」

 だけど僕たちはそんなの構わなかった。

 夜を体に纏ったままで坂道を自転車で駆け降りると、風圧で張り付いた夜が剥がれていく。その感触があまりにも気持ちよくて、しょっちゅう家を抜け出しては、そうやって遊んでいた。

 半袖から伸びた、日焼けして真っ黒になった腕にそれよりなお黒い、暗い夜闇がぴたりと這う。そのまま、もう何があっても動くまいと食い込んで、ぴりぴりとした痛みがあった。

 いつも一緒に来ているバンニの方を向き直ると、彼はもう首筋や顔まで夜に冒されていた。夜空の星みたいに二つの眼が光っている。

 ほんの少し、嫌な予感がした。彼は鈍くさいところがあって、いつもこうやってぎりぎりまで夜に侵されてしまう。それでも最終的には綺麗に剥がれ落ちて問題ないのだが、なんだか今日は胸騒ぎがして、心臓が痛いくらいに響いた。

「ほら、早く行けよ」

 本当に夜に呑まれちまうぞ、という言葉を飲み、バンニを急かして彼を先に行かせた。シャアっという自転車のタイヤがアスファルトをこする音がして、彼の背中があっという間に見えなくなる。僕も急いで彼の後を追った。

 いつも不思議に思うけれど、よく見知っているはずのこの道が夜になるとまるで知らない場所のように思える。どこまでも際限なく暗い暗闇の中で、街灯すらなく、僕たちは自転車のライトだけを道しるべにして駆け抜けていく。

 途中、毎年この季節になると咲く名前も知らない赤い花がぼうっと浮かび上がったかと思うと、後ろに流れ去っていく。昼間にはわからない草の匂いが濃く充満している。

 どこかでカエルの声。木の梢を揺らす夜鷹の気配。人ではない何者かだけが住む世界だ。そんな中へ無防備に足を踏み入れる僕たちを、今日こそ取り込んでやろうと夜が待ち構えている。こちらはこちらで、スピードと風を武器に突っ込んでいく。

 刷毛でなぞられるような、冷たく優しい手で静かに撫でられるような、名残惜しく別れを告げる、なにか絶対的で懐かしい存在の名残のような感触を味わうために。

ときたまそこに痛みが走る。いやだ、まだここからいなくなりたくないと駄々をこねる、いたいけで物悲しい、切ない感覚。

 その刹那的で儚い感触が、僕を現実の世界に繋ぎ止めている。闇の世界へ行ってはいけないと、お前は明るい日向の世界の生き物なんだと、何よりも強く確かな警告として、明日の朝には確かに太陽が昇って朝が来るんだと信じさせている。

 永遠に終わらないような夜もいつかは終わる。

あっという間に、僕たちは坂の下へ到着してしまった。時間にしてみればものの三分といったところだろう。

「ああ、今日も楽しかったな」

 先に到着しているはずのバンニに声を掛ける。が、返事が返って来なかった。

「バンニ?」

 見渡す限り誰もいない。光もない。新月の日を選んだから月明かりも、そしてどういうわけか星明かりの恵みさえもない。

「……バンニ?」

 僕はズボンのポケットから懐中電灯を取り出し、周囲を出鱈目に照らした。でも、バンニの姿が見当たらない。

 カエルの声も、まるで夜に吸い込まれてしまったかのように消え、僕の声だけが頼りなく宙にたゆたう。

 

 ――ネル、僕はここだよ。

 

 ささやかな星影のような声が聞こえて振り返るけれど、何もない。……いや、ある。最後の目の光がほんの僅か、空間に穴を開けたかのように光っている。

「バンニ!」

 今助けてやる、と僕は叫び、手を伸ばした。何かに触れる。生あたたかい粘液めいたものが、そこから僕の指先へ這い寄って来る。

 ぐっと掌を握って、それを掴み思い切り引っ張った。ぶちっと千切れるような音がしてバンニだった部分が露になるけれど、あっという間にまた夜闇に飲まれ見えなくなってしまう。

 今度は両手で水を掻き分けるようにそれを追い払ったけれど、結果は同じだった。

 

 ――駄目だよ、君まで夜になってしまう。

 

 また、ささやくようにバンニの声がした。

 でも諦められない。『やがて全身を夜に飲まれて帰れなくなるから、こんな風に闇の濃い夏の夜に出歩いてはいけない』と言ったばあちゃんの声が頭の中に蘇る。

 僕が夜を追い払う速度をあざ笑うようなスピードで闇はその手を伸ばし、僕のことまで染め上げていった。

「バンニ、バンニ!」

 生あたたかいそれは、暑い日の午後に入る海みたいに気持ちいい。指先から手首へ、手首から肘へ――気づけば足元からも闇が僕を呑み込もうとしていた。

 ああ、駄目だ。この心地よさに溺れてしまいたくなる。それを堪えるために必死で、何度も何度もバンニの名前を叫ぶけれど、確かに触れていた彼の身体の感触もいつしかあやふやになって消えて行ってしまう。

 バンニ! もう一度叫ぼうとして空いた口からも、夜が入り込んでくる。甘い、熟しすぎた果実みたいな、恍惚とした、夜が。

 右手から懐中電灯が落ちる。ことん、という音。ああ、それっきり音も光も無くなって、僕は、僕たちは、このまま、夜になってしまう――。

 突然、カッという光が瞬いた。

 まだ辛うじて残っていた視力が反応する。咄嗟に目を閉じると、瞼の裏で夜を追い払うように赤い色が滲んだ。

「何やっとるかお前!」

 眩しさの正体は車のヘッドライトだった。

 中から、二人のおじさんが降りて来るのが辛うじて見える。灯りっぱなしの光が、浄化するかのように僕の身体から夜を退けていく。

「バンニが、バンニが……!」

 僕はたまらず泣き出して、その場に崩れ落ちた。

「なんだ、もう一人おるんか?」

 落ち着き払った怒声に、多少の焦りが加わる。ああ、バンニはもう、本当に夜に呑まれてしまったんだろうか?

 でも今はそれどころじゃない。

 眩しい、眩しい、眩しい、眩しくて、眩しすぎて、目を開けていられない。

 僕は両手を目に当てた。触れたところが熱い気がする。いや、冷たいのだろうか? 感覚が消える。すうっと、さっきのバンニみたいに。

 二人分の大人の声が背後で聞こえたけれど、僕はもうそれどころじゃなかった。

 熱い。痛い。冷たい。気持ちいい。赤い。白い。暗い。暗い――。

 

 そうしてそれきり、僕は光を失ってしまった。僕は夜に呑まれなかったけれど、瞼の裏に夜を棲まわせてしまったのだ。

 バンニもまた、夜に呑まれたまま戻らなかった。でも、すぐ傍にいる。

 彼は世界中を満たす夜に溶け込んで、僕の瞼の裏にも溶け込んで、時々か細い声で僕を呼ぶ。

 

 ――ネル、ネル。僕はここにいるよ。君はいつ、こっちに来るの?

君。

「こら、他犬(ひと)のおしっこの臭いなんていつまでも嗅がないの」

 道端のポールにくっつかんばかりに鼻を近づけくんくんする愛犬――ジェロに私は声を掛けた。

 ジェロは理解しているどころか聞こえてすらいないかのように思う存分に臭いを嗅ぎ、確かめ、そこにおしっこをする。うちの犬はオスなので、マーキング意識が高い。が、犬を散歩させるときのマナーというものがあるので、私はその上から容赦なくペットボトルに汲んで持って来た水を掛け、彼のマーキングをなかったことにした。

「寒いから、早めに帰ろうね」

 吐く息が白い。空気が澄んで、星がよく見える。といっても遠く東の方が副都心なので空は明るく、見えてもベテルギウスがいつもより明るく見える程度だ。この町はその点だけが、前の町に比べてつまらない。

 ジェロは恐らく雑種だが、多分柴犬とか秋田犬が混じっているのだろう。むくむくもこもこの冬毛で、寒さなんてなのぼのもんじゃい、もっと歩こうよ、という顔で私を見上げている。

「そんな顔で見ても駄目だよ。風邪ひいちゃうもん」

 寒さに極端に寒い私は、絆されそうになる自分を抑えてジェロのリードを引っ張る。それにつられて彼も歩き出し、散歩を再開した。

 ジェロを拾ったのはちょうど一年くらい前の話だ。

 家と仕事が無くて、さてどうしようかな、と考えあぐねながら公園のベンチに座っているとき、足元にまだ手のひらサイズの子犬だったジェロがじゃれついてきたのだ。周りを見たが飼い主らしき人はおらず、首輪もつけていなかった。……きっと、捨て犬だったのだろう。

 お金はあったから、別に路頭に迷っているわけじゃなかった。仕事で悩んでいたわけじゃなかったし、衣食住にも困っていなかった。恋人も、いた。今までに何人かと付き合った経験があったが、彼のことがその中でも格別に好きで、好きすぎて、どうしたらいいかわからなくなってしまった私はある日突然、自分と自分自身を取り巻くすべてが怖くなって、逃げ出してきたのだ。

 ずっとコンタクトをしていたのを黒縁の眼鏡に変えて、髪の毛も切ってとびきり明るく染めて、ぱっと見は他人に見えるような姿になって、私は今住んでいる町にトランクひとつでやって来た。親にはその前に行った旅先の辺鄙な村から「無事に生きているから探さないでください」と葉書を投函した。失踪願とか出されたら困るから。今でも一、二か月に一度は、同じようにして、どこか、今住んでいる場所とは全然違う場所から同じような葉書を出し続けている。

 もともと家族間の人間関係も希薄で、友達も大していなかった私がひっそりと姿を消すのは思っていた以上に簡単だった。それは少し寂しさも伴ったけれど、それと同時に気楽で、私はすぐに新しい仕事を見つけて、ジェロと住める家も見つけて、今、こうして散歩をしている。

 他者とある程度の距離を保って密に関わらずに、本当の一人ぽっちでいることは、私にとってとても楽で安心、心地よいものだった。

 仕事は、たまたま近所にあったパン工場での勤務を選んだ。一日八時間、二交代制で延々とパンにウインナーを挟んだり、フルーツを乗っけたり、具(例えばツナマヨネーズとか、卵とか)を入れたり、そういう仕事。

 衛生上、マスクをして、同僚と話をしちゃいけないという点も、私にとってとても良かった。

 誰とも仲良くならず、けして嫌われず、ただ一人でいられることは私にとても合った生き方だったのだ。

 新居の1Kマンションも、一人で暮らすにはちょうどいい広さで日当たりも良く、気に入っている。ジェロにはちょっと狭いけど、その分、お散歩に行ってあげればいい。

 トランク一個の中身はあっという間に部屋の中に呑み込まれて、私はなんの障害も、困りごともなく新生活をスタートすることが出来た。

 まあ、最初の内は数少ない友人たちの何人かから「今どこにいるの?」とか、「早く帰っておいでよ」というLINEが来ていたけど、すぐにアカウントを消した。そのまま、新しくは作っていない。新しく連絡先を交換する人なんていないから。恋人からは何度も電話や、似たようなLINEが来ていたけれど、私はそれさえも無視した。返事しそうな自分をなんとか抑えて、抑えて、見ないようにした。

 ジェロはお利口さんだから、そういうときはいつも私の膝の上に乗って、私の顔を見上げる。「ほんとうにそれでいいの?」って顔をする。

 まるで人間みたいなジェロがいたから、私はなんとかこうして上手いこと失踪して、今のところなんとかやっていけているのだと思う。

 わん、とジェロが小さく鳴く。はいはい、と言って、私は角を右に曲がった。

 道路を挟んだ反対側にある大きな家でも犬を飼っていて、ジェロは毎日、お散歩でここを通る時には挨拶代わりに一声、吠える。その家からは返事が返ってくるときもあるし来ないときもあって今日は返って来ないけど、きっとお家の奥の方でぬくぬくとあたたまっていて聞こえなかったんだろう。

 冷たく冷え切った夜の空気を思い切り吸うと、肺の奥まで澄み渡る気がする。

 こうして引っ越してくるまでは、こんな風に感じたことはなかった。ただ寒いから早く駅に着かないかな、とか、お布団から出たくないなあとか、そんなことばっかりで、目の前にある世界の色とか形、匂い、雰囲気なんてまるで目に入らなかった。新しい発見だ。人は自由になると、こんなにも敏感になって、感じやすくなって、それを味わうことが出来るようになるのだ。

 ふと、置いてきぼりにしてきた恋人のことを思い出す。

 彼と一緒にいる間も、別の色味で世界は輝いて見えてた。今とどっちがいいかを聞かれると困ってしまうけど、でも、あれはあれでかけがえのないものだった。

 どうしてあんなに好きだったのに、私は手放すという選択肢を選んでしまったんだろう? たまに、そう考えて落ち込んでしまうこともあるけれど、この一年間で私の心はどんどん上向きに、光注ぐ方へ育つ植物の芽みたいに伸びていっているから、どれだけ後悔しても、寂しくても、私の決断は正しかったんだって、思うようにしている。そうじゃないと心が折れて、また、元の生活に戻ってしまいそうだったから。

 私の恋人は既婚者だった。お互いに、全然そんなつもりもなかったのに、何故か結ばれてしまった。思いのほか二人は相性が色んな意味で良くて、八年もその関係は続いた。

 でも彼に離婚するつもりはなかったし、私も別に離婚して私と結婚して欲しいと思ったことはなくて、倫理観とか、彼の家族の気持ちさえ考えなければ何の問題もなかったのだ。

 人間は人間にこんなに愛情を抱けて、執着さえしてしまって、肩書でもなんでも上げてしまうことが出来るのか、ということが、私にはとても新鮮だった。これが恋なのなら、今までしてきたものは何だったんだろうと首を捻って考えてしまうくらい私は彼が好きで、好きで、しようがなかった。

 でも、何事にも必ず終わりというか、潮時は来る。それが一年前の私に訪れた状況で、私はそのまま、流されるようにして今いる街に流れ着いたんだろう。

 家のそばには大きな川があって、遊歩道の整備中で大掛かりな工事をやっている。

「早く工事が終わるといいね。そしたらもっと楽しく散歩できるようになるかも」

 ジェロに話しかけるが、彼は散歩に夢中で私の言葉なんて聞いてない。

 なんだか、そういうのが今は無性に心地よかった。

 誰にも声が届かなくて、誰の声も私に届かなくて、しんと静かな世界でうずくまっていられることが、何よりの癒しなんだと思う。

 好き、という気持ちは尽きないけど……いや、尽きないからこそ、私は壊れてしまったんだろう。そう、私は壊れてしまったのだ。今は世界とジェロが癒してくれる。多分、もうすぐ私は大丈夫になって、また人恋しさを感じるようになって、新しい世界へ飛び込んでいけるようになるはずだ。

 いくら楽で安心できるとしても、やっぱり心細くなる瞬間は訪れる。風邪で寝込んでるときとか、雨風が強くて窓ががたがた一晩中うるさくて眠れない夜とか。

 いつも足元で眠っているジェロの背中を撫でてそのあたたかさを確認すればすぐに気持ちが落ち着いて眠りに就けるけれど、もし、ジェロがいなかったら、私は一体どうなっていたんだろう。

「ねえ、ジェロ」

 話しかけても返事はない。ただ真っ直ぐ、彼は自分の興味が赴くままに歩くだけだ。何も考えていないとは思わないが、その単純さ、迷いのなさが羨ましい。

「……月が綺麗だから歩いて帰ろう」

 ふと、懐かしい曲が口をついて出た。

 学生の頃に何度も何度も繰り返し聞いた曲。あの頃は、この曲みたいに純粋で真っ直ぐな恋をして、結婚して、子供を産んで……そんな未来を当たり前のように信じていた。

 実際のところは不倫に疲れ果てて自分自身を取り巻く何もかもが嫌になり失踪しているという、真逆の人生をたどっているわけだけれど、でも、それでもこの曲は変わりなく美しくて、なんとなく泣きたいような気持になる。

「……話の続きをしよう……」

 うろ覚えの歌詞を唄いながら、私はジェロと歩いた。

 こういう恋が、彼と出来たなら良かったな、生まれ変わったら出来たりするのかな、なんて、寝言みたいなことを思いながら。

 そういえば月が綺麗ですね、って、夏目漱石がI LOVE YOU.を訳したときの言葉だったっけ。

 私は本当に、彼のことが好きだったんだなあ。

 好きになりすぎて、どうやって好きでいたらいいかわかんなくなっちゃって、ひとりで勝手に迷子になってしまった。

 辛かったけど、今より寂しかったけど、でもやっぱり、あの頃に戻りたいなあと思うけど、それは無理だよって、私の心と体が言っている。

 彼が私のことをどれだけ好きでいてくれたのかわからないけど……でもきっと、彼なりに私のことをうんと好きでいてくれて、大事にしてくれてたんだろう。今ならわかる、というか、今になってやっとわかった。

 ひとりぼっちの澄んだ世界でよく目を凝らせば、色んな思い出が何のバイアスもかからずに思い出せて、その中の彼の仕草や言葉、ひとつひとつに愛情と優しさを見出すことが出来る。

 ああ、うん、今この瞬間、彼の私への気持ちを信じられた、ただそれだけでも、こうして失踪して良かったと思える。

「でもいつかは 僕らの身体消えて

宇宙(ソラ)に溶けてゆく Love is gone

みえないチカラ感じ合えたら 

それはきっと 真実だろう……」

 唄いながら、私はジェロと夜の道を往く。

 さよならは言わないままでいる私を許してね。次に恋をしたとき、私はあっさりとあなたを忘れ去ってしまうかもしれないけれど……でもどうか、そのときまでは。

 

(タイトル・歌詞引用――FIELD OF VIEW / 「 君。」より)