美しい血肉

日々のことが美しくないなんて嘘だ。

Thou shalt love thy neighbour.

「どうして世界は僕に優しくないんだろう」

 そう問うたら、傾き始めた冬の日差しを浴びてうたた寝をしていたカルルが、目をぱちりと開いた。

「起きていたの」

 僕は少しだけ驚いて、そう言う。

「半分寝ていて、半分起きていたんだよ。昨日授業で習っただろう、シュレディンガーさ」

 彼女は目を三日月形ににいっと細めて、僕に顔をぐっと近づけた。

 男の子の様な話しぶりのくせに、カルルは淡い茶色の髪を胸元まで真っ直ぐに伸ばした女の子だ。柔らかく、この季節には縁遠いだろう花の匂いがする。

「……梔子?」

 思わず呟くと、

「よく気付いたね。花の名前を知っている男はもてるよ」

 ぱっと見開かれた目も淡い茶色、それが日の光に透けて、彼女の中まで見通せてしまいそうに錯覚する。

「さっきの問いに応えてあげよう」

 カルルは軽やかに僕から離れ、脇にまとめられていたカーテンをばさばさと音を立てながら引き、窓を閉ざす。

「君が世界に対して優しくないからさ」

 

 そうして、訪れた、間は一瞬だったのか。

 

「……汝の隣人を愛せ、だよ」

 

 ああ、それも確か、今日の授業でやっていたなあ。でもそれは、ねえ、まったく違う意味ではなかったっけ?

 

 今、初めて、僕はカルルが女の子であることに気がついた気がする。

 柔らかく湿った唇にはまだ、花の匂いが残っている。

From a distance far

 窓越しに蝉の声が聴こえてくる。

北向きの部屋には早朝でも陽は射さず、肌寒い。薄い灰色のフィルタがかかっているような空気。空調の音が耳鳴りのように聴こえる。

 私は十年前に使っていたような、灰色の手のひらサイズの携帯を手にしている。横3センチ、縦1・5センチ四方の画面は安っぽい黄色の光を灯し、通話中の画面になっていた。通話時間は七時間を越えている。

 携帯をそっと、耳に押し当ててみた。ざらざらとした、微かな風の音のようなノイズが聴こえるだけだけど、その向こうにある気持ちはこれ以上なくはっきりと流れ込んでくる。

 

 十年ぶりの君へ、ハロー、ハロー。

君はどんな大人の女性になったんだろう。あの頃はまだ、高校の制服を着ていた。とてもじゃないが、僕には想像が出来ない。

 手を放してしまったけれど、僕は今でも君の事が好きだよ。愛していると、言ってもいい。お揃いで買った指輪はもう錆びてしまったけれど、大切に、大切に、とってある。今思えば、もっといいのを買ってあげればよかったと思ったりして。

 僕は今もひとりでいるよ。そして、とても寂しいと凍えて、こんな風に君に電話をかけてしまっている。

 声を聴きたいとか、また会いたいとか、そういうんじゃないんだ。

ただ、また繋がれるということ。同じ世界、同じ時間、同じ空の下、存在しているっていうこと。ただ、それだけ確かめたら、僕は大丈夫になれるんだ。また明日を迎えられるんだ。

 

 思念は、ラヂオのように劣化した音声で私へ直接響く。

 年上だった彼はヘヴィースモーカーで、いつも声が少しかすれていた。キスをするときの、あの、くぐもった煙草の匂いまで思い出せる。

 

 携帯を耳から離し、もう一度画面を見つめる。涙を流す代わりに、私は溜息をつく。

 

 私はもう高校生ではないし、彼は何年も前に死んでしまった。携帯はもう、充電すら出来ない代物で、電源が入るわけもない。

 しかし真夏の今頃、彼からは必ず、この携帯に電話がかかってくる。そして優しいノイズを私に伝え続ける。

 彼の魂は今も生きて、私のことを見続けている。

 このことに意味はないだろう。こんな思い出の亡霊に縛られ続けることはいいことではないのだろう。

 けれど私は、彼の電話を受け続けずにはいられない。

 私が初めて、好きになった人。きっと、一番に愛した人だから。

 

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 気付けば眠りに落ち、起き上がったときにはもう、通話は途切れていた。

電源ボタンを長押ししても携帯はうんともすんとも言わない。

「…また来年、逢いましょう」

 うすぼんやりした意識のまま、別れの言葉の代わりに約束を呟く。

 夢か現かわからない、けれど、それでもいい。また会えることが希望であり、私にとっても、明日を迎えるために必要なのだから。

Spring

「はあぁるぅのおおがあわーは さーらーさーらーゆーくーよー」

昼過ぎまで雪が降っていた哲学の道を、花音が唄いながら歩いていく。私は少し距離を保ちながら、その背中を追うようにして歩いていた。

 アスファルトで固められた道と道の間にある奈落を、透明な水がさらさらと流れていく。これは小川なのか、それとも用水路とか、そういうものなのか、なんと言ったらいいんだろうと考えながら、人目も気にせずに、水と同じくさらさらと唄い続ける花音の後ろ姿を漫然と眺める。

「きぃーしのすぅみぃれーや れーんげーのはぁなぁにー」

二月も半ばを過ぎたこの頃は陽が大分伸びた。民家の隙間から覗く山々の向こう側が赤く、ぼうぼうと燃えているようだ。空にはダイヤモンドみたいな一番星が光っている。あの空が燃え尽きた頃、夜が来てしまうんだろう。それまで、あと、どのくらいの猶予があるんだろうか。

人通りの少ない道端の、積もって間もない雪を足で踏みつぶす。少し水っぽいそれはぐしゃりと崩れ、水の中に零れていった。

「すぅーがーたやーさーしーく いぃーろうーつぅくーしーくー」

花音は、私のことなんてまったく気にせず、振りかえらず、唄い続けている。気づけば車止めに乗り、平均台の上を歩くように、ゆらゆら揺れながら歩いていた。

ああ、危なっかしい。そういえばそうだ、あの子は車止めとか、手すりとか、少しだけ高い所に上って歩くのが好きだった。いつもなら、見つけたそばから駆け寄って、背中を支えてあげた。そして、手を繋いで歩いた。何度も、何度も。

「さぁーけーよ さぁーけーよーと さぁさぁやぁーきぃなぁーがーらー」

ああ、遠い日々だなあと思う。いつも二人で過ごした日常が、もう、十年も前のことだなんて。

今、ここで、私がひょいっと横道にそれて隠れたら、彼女は気づくだろうか。私がいなくなったことに慌てて、探したり、狼狽してくれるだろうか。もし、そうしてくれるとして、その気持ちは、私が今感じているのと同じくらいの強さだろうか。それとももっと?あるいはまったくそんなことがなかったりして。

そこまで考えていたらなんだかいたたまれない気持ちになって、目線を花音の背中から空へ移す。そしてそれを誤魔化すみたいにして、

「陽が、延びたね」

と、ぽそりと呟く。すると、「でもあんまり寒いから、あたたかくなるってこと、忘れちゃうよね」と言って、花音がこちらを振り向いた。

独り言が届くほどの距離だけど、薄暗さで彼女の表情ははっきり見えない。でも、眉間に少し皺が寄っているような気がした。怒っているように、見えた。そうして、私は花音が、私とおんなじ寂しさを抱えていたことに、気づいた。

あと数時間したら、私はこの街を離れる。今度はいつ逢えるだろう。

いつまでも一緒にいられると信じていた日々は色褪せ、私は明日を信じない。そして朝が来ることを知らない花音にとっても同じだから、私たちはきっと、次の約束なんてしない。未来なんて、大切なものを蝕む毒にしかならないんだ。

今。ただ、今だけを、私たちは必要としている。この瞬間、一瞬で遠ざかる煌めき、手触り、それを私も、彼女も、必死で記憶や肌に焼き付ける。それだけを目的に呼吸をして、日々を過ごしてやり過ごして、次に巡って来る「そのもの」とぴたり当て嵌める瞬間を待つ。

 

街全体が文化遺産みたいなものだからだろうか。私が住む街より、街灯が灯り始めるのが随分と遅いような気がした。まだ燃える空の底、薄暮に沈んだ景色の中を泳ぐようにして、私は花音の元へ駆け寄った。

無防備に冬の中へ投げ出されてた花音の手を握ると、死人のようだった。同じようにしていた私の手も冷たく、痛いくらいだったけれど、それよりもなお、冷たい。

哲学の道を抜け、私たちは車通りの激しい大通りへ出た。たぶん、この道にも名前が付いているのだろうけれど、私にはよくわからない。

ずらりと並ぶ水銀灯の光がぴかぴかと宝石のようで目に眩しく、なんだか異世界めいて見える。見なれない景色。なんだかわけもなく寂しさを誘う。

どうして、私はここにいるんだろう。どうして、私の家はこの街に住んでいないのだろう。意味もなく、そんな気持ちになる。

「あはは、夢子の手、あったかいね」

目を僅かに伏せて、私の肩先で花音が薄く笑う。微笑みじゃない。何かを諦めるために必要な儀式みたいな、そんな表情。

「……新幹線、何時だったっけ」

「んと、19時半」

手をふわりとたなびかせるみたいにして、花音が繋いだ手を解いた。ぺたぺたっと小走りになって先を行き、こちらを振り返る。街明かりに照らされて、彼女の輪郭が銀色に光って見えた。もう二度と取り返せない、一瞬の光り方だった。

 

その後、私たちは近くのファストフードのお店でもそもそと、言葉少なに食事をして、別れた。

逢おうと思えば、そんなに難しい距離ではない、でも、だからこそ、逢えない。私も花音もきっと、別れを惜しめばいいのか、軽んじればいいのか、いつまでもわからないんだと思う。

彼女を好きだと思う。その形容詞がなんなのかはわからないけれど、愛しいと思う。

私は新幹線のシートを倒し、携帯のカレンダーを眺めながら、次のことをぼんやりと考えた。

 

 

I kill your canon.

君のカノンを追い越していく

繰り返し増殖していく自殺傷動

先回りして待っているのさ

 

片っ端からその音を

ひとつひとつ 叩き潰してやる

もうこれ以上唄えなくなるまで

いちからじゅうまでやっつけて

 

そして始まる僕のカノン

君の旋律を塗りつぶしていく

聴きたくないなんて言わせない

そうやって頑なに耳をふさぐより ねえ

抱き合う方が幸せだってこと わかってくれるまで

I must go the future.

数年ぶりに実家に帰った。

新宿から私鉄で三十分揺られ、バスに乗っていく場所。

駅前は開発が進んでとても綺麗で賑やかになったけれど、

離れてしまうとそこは寂しい振興都市だった場所だ。

高齢化が進み、私が通っていた小学校も、中学校も失くなった。

真昼のそこには人の姿が見当たらず、なんとも言えない寂寞が充満している。

遠く、遠く、ここではないどこかから運ばれてきたような喧騒が、

微かに耳に届くばかり。

この街をぐるりと囲むように走る国道だけが、この世界には、街にはまだ人間がいて、

彼らの生活が微かに息をしていることを証明している。

 

この場所に、いい思い出なんかひとつもない。

憎悪、心細さ、気まずさ。

いつだって、上手に切り抜けられなかった。

ひたすらに泥臭く、傷だらけで、みっともなく生き延びた。

なんでまだ生きてるんだって言われた声が、いつまでも鼓膜に張り付いて剥がれない。

小学校が、中学校が無くなったことにどれだけ安堵したか。

死にゆくこの街に手向ける花はあれど、惜しむ気持なんて欠片もない。

それなのに。

 

どうしてこんな、寂しい未来が心に痛いんだろう。

懐かしさが、かまいたちのような鋭さで絶え間なく私に吹き付けるんだろう。

 

マンションのエントランスをくぐり、エレベーターに乗り込んだ。

私が知っているエレベーターじゃない。

奥の壁に大きな鏡が据え付けられ、壁も少し洒落た模様に飾られている。

私がここに住んでいた頃は鏡なんてなかったし、壁は安っぽい黄色一色だった。

音もなく昇るそれは他に人を乗せることなく、すぐに目的の階に辿り着いた。

やはり見知らぬ色で塗られた廊下を歩きながら、下を見下ろす。

人気のない道路。公園。あちこちに植えられた街路樹や生垣だけが、

やたらめったら成長して枝を伸ばしている。

今は冬だからそうでもないが、きっと夏になったらぎらぎらとした生命力を発散し、

この街を覆い隠してしまうんだろう。

 

知っている部分と知らない部分がぐちゃぐちゃに混ざった景色を眺めながら、

どうしようもない衝動に負けそうになる。

あんなに嫌って、捨てるために必死になった場所なのに、

戻れるならば戻りたい。そう、強く思った。

そして、それ以上の強烈さで、それは出来ないんだと思い知った。

戻れるようで、でももう戻れない。ここに、私の居場所はない。

 

もう少し上手く出来なかったのか。

本当にこの方法しかなかったのか。

だけど、目の前にあるこの現実だけが全てで、これ以上も以下もなくて、

きっとどんなルートを辿ったって、この結果にしか辿り着けなかっただろう。

ふるさとを嫌いになれる人なんていない。

でも、私は嫌いになることでしか自分を守れなかった。生きられなかった。

そういう人生もある。……それだけのこと。

今までに積み重ねてきた人生の断片が綯い交ぜになって、ナイーブになっている。

…ただそれだけのこと。

 

不意に、カーン!と、ボールを打つバッドの音がくっきりと耳に届いた。

私はぐうっと伸びをして、一言、呟く。

 

「未来に行かなきゃ。」

Only the dusk of the world is beautiful

ビルとビルの間でわだかまるオレンジの隙間を縫うように、

鳥たちが渡って行く。

空は予感に打ち震えるような、

綺麗なレモン色をした光でいっぱいに充たされている。

 

私は悪い夢を見て迎えた今日が、

それに負けることなく暮れていくことを知る。

 

日々に希望はない。

疲れて萎えた両足と、うすらぼんやりとした頭があって、

私の正常な判断力を奪うのがこの世界なのか、

それとも私自身の愚かさなのかよくわからないでいた。

怒る気力さえ持てず、

ひかり溢れる空を見て、ほうっと息を吐きながら。

 

息は白く、早く灯りすぎた街燈の光をはらんでぼうっと光る。

それはとても健康な魂のように見えたので、

私は少しだけ、満足をした。